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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第二章「杳体」

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――私の私見ですが、《世界》をゴッホの「星月夜」のやうにしか見られない《存在》は必ず此の世に《存在》する筈だと思ひますわ、甲さん!
――ならば、私にすれば、その《存在》が《杳体》です。つまり、《存在》の夢、若しくは仮象の《世界》が《現実》だといふ《存在》が、仮に此の世に《存在》するならば、私にとってはその様な《存在》こそが《杳体》なのです。
――それでは、先程言ったことと矛盾してゐますわ、甲さん。あなたは先程《杳体》は此の世に《存在》しない《もの》と断言なさった筈です。
――夢や、仮象は、さて、此の世に《存在》すると言ひ切れますか、雪さん?
――それでは、甲さん、ル・ドンの絵が《現実》ならばその《現実》に《存在》する《もの》が《杳体》と仰るのですね?
――はい。しかし、これは未だに誰の賛同も得てゐませんがね、なあ、丙君!
 と甲君が自嘲気味にさう言ふと、丙君が、
――また、心にもないことを言って、雪さんを煙に巻きたいのか。雪さん、甲君がゴッホついて話したことは話半分に受け取ってください。この甲といふ人間は、優しすぎる故に心にもないことを平気で言ひますから、なあ、甲君。そして、甲君の悪癖で、甲君は嘘っ八を言って相手が困惑する顔貌を見るのが堪らなく好きだといふのが、甲君の趣味みたいな《もの》なのです。
――さうですか。しかし、甲さんのお話はとても解かり易かったのですが。
――それぢゃ、丙君は《杳体》を何と目星を付けてゐるんだい?
 と甲君がにやにやと笑ひながら丙君に言ったのであった。
――ふむ。私が思ふに、巨大な巨大な巨大な雲丹(うに)状の闇の如き《もの》と想像してゐますがね。
 と丙君が言ふと、雪が、
――巨大な巨大な巨大な闇の雲丹? さう考へる根拠は何でせう?
――ふっふっふっ。それが全くないのです。
 と丙君が鋭き眼光を少し綻ばして微笑んだのであった。
――つまり、丙君は、未だ《杳体》に関しての考へは以前から全く深化せずに、《杳体》は朧に巨大な巨大な巨大な雲丹状の闇に直結する頭蓋内の闇といふ《五蘊場》に生滅する仮象、否、表象との関係から導かれる《もの》と考へてゐるといふ事だね。
 と文学青年の丁君が、またしても、はっきりと言ったのであった。
――さうさ。しかし、実際に「黙狂者」を前にすると、その「黙狂者」が言ふ《杳体》は必ず《存在》する筈だと看做したいのが本心だ。
――つまり、《杳体》は丙君にとって、或る意味希望の星の如き《もの》なのかい?
 と数学専攻でブレイク好きの乙君が丙君に言ったのであった。
――否、ブレイクの幻視が、私にとっての《杳体》の糸口で、万人には全く見えない《もの》が、ブレイクには見えてしまふその《存在》の哀しさこそ《杳体》を《杳体》足らしめ、また、それ故に《杳体》は此の世で報はれるべき《もの》でなければならないとは思ってゐるがね。
――別に報はれなくとも構はぬのぢゃないかね?
 と丁君が言ふと、丙君は、
――それは丁君の言ふ通りなのだが、私は、《杳体》なる《もの》は《存在》の全てを包摂する、つまり、如何なる《もの》も見捨てない神仏をも楽楽と凌駕する《もの》であってほしいと思っているだが……。
 と丙君が言葉に澱むと、甲君が、
――それぢゃ、此の宇宙が《存在》すれば全て丙君の言ふ《杳体》は不必要な《もの》でしかないぜ。何故って、丙君が言ふ《杳体》とは徹頭徹尾此の世の事であって、別に《存在》を語るのに《杳体》を要請する必然性が全くないだらう、丙君?
――ならば甲君よ、《吾》とは何なのかね? この己の《存在》に決して我慢がならぬ此の《吾》といふ《存在》は、此の世の摂理のみに従ってゐると言ひ切れるかね?
――でも、《吾》でさへ、己の《存在》は否定出来やしないだらう?
――だから尚更、《吾》といふ《存在》に我慢がならぬ《吾》が《存在》してしまふ此の不合理をも呑み込む《杳体》の《存在》は、神仏と同様に此の世の《存在》にとっては必要不可欠なのさ。
――あら、丙さん、あなたの仰る事に従へば、丁さんや甲さんの言ふ通り、《杳体》を要請する必然性は全くありませんわ。
 と雪が言ったのであった。
――つまり、皆は、《吾》といふ《存在》には、此の世の摂理として《吾》に我慢がならぬ事を「先験的」な摂理として賦与されてゐると看做してゐるといふのですか?
 と丙君が言ふと、雪が、
――《吾》とは所詮、そんな《もの》でしかありませんわ。
 と語気を強めて言ったのであった。
――それでは、《吾》といふ《もの》に礼を欠いた解釈ではありませんか、雪さん?
――それで別に構はぬないのぢゃありませんの? 《吾》とは《吾》に対して徹底的に不作法な《存在》であって、《吾》に従順な《吾》は、全宇宙史を通して、一度も《存在》した事があるとでもお思ひですの、丙さん?
――それでは《吾》は暴走するだけですよ、雪さん。
――と言ひますと?
――つまり、《一》=《一》の自同律が成立するには、此の世の《もの》ならぬ《もの》の《存在》が暗示されてゐて、その此の世ならぬ《もの》が《存在》する事を暗黙裡に誰もがひた隠しにひた隠して《一》=《一》の自同律が論理的に成立するが如く看做さない事には、何《もの》の《存在》も語れぬのっぴきならぬ事態に遭遇しちまったのが現代なのです。
――しかし、この方は、発話する能力を喪失したこの方は、既に《吾》の暴走が起こってゐるのぢゃありませんの?
――いや、雪さん、この「黙狂者」は、発話しない事で何とか《吾》が暴走する事を抑制してゐるのです。
 と君が言ふと、
――と言ひますと?
――つまり、××さん、この丙さんが言ふ通り、《吾》が《吾》である事に我慢がならず、それを「先験的」な《もの》と看做して、《吾》が為すがままにしておくと、必ず《吾》は《吾》に対して牙を剥き、そして、《吾》を食ひ殺さうとするのが此の世の摂理といふ事ですの?
――さうでなければ、雪さんは、この如何とも度し難い《吾》は如何様に扱ってゐるのですか?
 と君が言ふと、雪は何食はぬ顔をして、
――《吾》の抹殺です。
 と答へたのであった。
――へっ、雪さん、あなたもまぎれもなく此の《杳体御仁》の「黙狂者」君と同じ類の「現存在」で、それとはまったく自覚してゐなくとも、雪さん、あなたも既に《吾》に反旗を翻してゐるのでね? つまり、雪さんも、それとは知らずに《杳体》の探索に歩を一歩進めてしまったのですね。さうですか、へっ。
――と言ひますと?
――つまり、雪さんもまた、此の《吾》の撲滅でしか最早、《吾》が此の世で生き延びてゆく方法がないと、それとは自覚してゐなくとも、此の「黙狂者」君と同様に《吾》の撲滅をおっ始めてしまったのです。
 と甲君が、何やら含み笑ひをしながら言ったのであった。
 すると雪は煙草を一本口に銜へて煙草に火を点けると、
――ふ~う。
 と深く一息深呼吸をしたのであった。そして、
――甲さん、《吾》が《吾》の抹殺を企てるのは自然の摂理とは思ひませんか?
 と雪が言ふと、甲君が、
――此処でゴッホを持ち出すまでもなく、《吾》の撲滅をせずにはをれぬ不合理は、《存在》が此の世に誕生した刹那に既に始まってゐたのです。