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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第二章「杳体」

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――しかし、《念》は此の世に一様に遍在してはゐまい。「黙狂者」の説く通り、《念》もまた渦を巻かなければ、その《存在》は此の四次元多様体たる《世界》に生くる吾等に感知出来る筈はないと思ふがね。
 と丙君が荘重に言ったのであった。
――さう。甲君もまた《念》は宿る《もの》と看做してゐるだらう?
 と君が言ひ、
――《念》が自同律の陥穽に落っこちてる事自体、既に《念》には濃淡や強弱のある揺らぐ《存在》と看做した方が辻褄が合ふと……。
 と文学青年の丁君が言ひ、
――∞は厄介な代物だぜ。
 と数学専攻の乙君が言ったのであった。
――すると、君等は私が言ふ《念》といふ《もの》の《存在》には同意してゐるといふ事かな?
 と甲君が言ふと、猊下たる丙君が、
――いや、唯、《吾》といふ《存在》に躓いた《もの》は何《もの》と雖も、∞を夢想せずにはをれぬ宿命にあるといふ事だ。
――夢想ねえ? 丙君は、∞が《存在》すると断言できるかい?
――此の世に闇が《存在》する以上、∞は《存在》する。
――しかし、闇は《存在》の例へば「脳」と言ふところで作り上げられた《もの》に過ぎぬのぢゃないかね?
――だから尚更、闇が《存在》する以上、∞は《存在》するのだ。つまり、此の世の森羅万象は闇を表象する事で∞を何とか手に摑む事が出来るかもしれぬ《もの》として渇望せずにはをれぬ事が、即ちそれが∞が《存在》する証左であり、また、∞を渇望しない有限なる《存在》は、多分に皆無に違ひないのだ。
――さうすると、この「黙狂者」君が言ふ《杳体》といふ《もの》の《存在》を、その言ひ振りだと暗示してゐるとしか言へぬぜ、ふっ。
――つまり、闇を呑み込む杳として知れぬ《杳体》か。ふむ。つまり、その鳥羽口に闇が《存在》してゐるといふ事で、また、《杳体》においては∞も、また姿形ある何かへと変化してゐるといふ事だらう?
――いや、「黙狂者」君は、∞の《存在》自体を疑ってゐるのさ。『本当に∞は《存在》してゐるのかね?』とね。
――つまり、∞に代はる《もの》が「黙狂者」の言ふ《杳体》と?
 と、丙君は何か頭蓋内を弄るやうに呟いたのであった。すると、甲君が、
――だが、この「黙狂者」君にも未だ《杳体》が何なのかさっぱり解からぬのだが、しかし、俺は、それでもこの「黙狂者」君の《杳体》は支持するぜ。
――それは何故に?
 と、君が甲君に尋ねると、文学青年の丁君が、
――所詮、《杳体》も∞に匹敵する事はない!
 と、珍しく語気を強めて言ったのであった。
――ふっふっ。「現存在」は、しかし、∞を濫用し過ぎる事を、さて、自覚してゐるのだらうか?
 と数学専攻の乙君が言ふと、君が、
――闇を安易に∞と結び付ける思考法がそもそも間違ひの原因なのさ。
 と言ったのであった。
――さう。
 と甲君は言ひ、
――さう、××君の言ふ通り、此の世の森羅万象は闇に出合ふと直ぐに∞と結び付けたがるが、この「黙狂者」君はそれに疑義を唱へてゐるのだ! すると、丙君、有限なる《存在》が∞を夢想せずにはをれぬ宿命といふ言葉は、《存在》は闇を前にすると思考停止状態に陥り、唯、呆然としてゐるに過ぎぬといってゐる事に外ならないぜ。
 と甲君が言ふと丙君は更に眼光鋭く甲君を睨み、
――だから、《存在》にとっては∞は便利この上ない玩具なのさ。
――つまり、それは、《存在》にとって使ひ勝手がいい《インチキ》な《もの》と言ってゐるのと同じ事だぜ。
――ふっふっ。《インチキ》で構はぬではないか。それで《存在》が安寧ならば。
――∞を前に、さて、有限なる《存在》は安寧かね? 寧ろ、疑心暗鬼で不安一杯の筈だぜ、丙君!
――だから∞といふ《インチキ》に《存在》は飛び付かずにはをれぬのさ。有限なる《存在》に対して∞を前に、直截的に対峙させるには余りにも残酷過ぎるのは火を見るより明らかだらう。
――残酷ねえ~、ふむ。
――はっきり言ふが、∞が《インチキ》だからこそ、有限なる《存在》は安寧を得るのさ。仮に∞が未知なる《もの》ならば、それは《存在》をのっぴきならぬ処へと追ひ詰め、挙句の果てには、縊死させるのが落ちさ。
――それさ。この《杳体御仁》の「黙狂者」君が今ゐる処は。《杳体》といふ∞すらをも呑み込んだ何とも得体の知れぬ、しかしも巨大なる何かに直に対峙してしまったのだ、この《杳体御仁》の「黙狂者」君は。そして、その結果、発話能力を失ってしまった。つまり、この「黙狂者」君はのっぴきならぬ死臭漂ふ此岸と彼岸の間で、その恐怖のために言葉を発する行為を喪失してしまったのだ!
――それは君の思ひ込みでしかないのぢゃないかね、甲君よ。この「黙狂者」は、多分、魂を恰も天国と地獄に裂かれたかの如く、《吾》が此岸と彼岸へと真っ二つに引き裂かれた煩悶で言葉を発話する術を失ってしまったのさ。
――では、この方が今ゐる処は中有の如き処なのでせうか?
 と、雪が丙君に訊いたのであった。
――ふむ。中有ですか。さて、この「黙狂者」は、《死》を擬態出来てゐるのかどうかで、この「黙狂者」が虚空にゐるのか中有にゐるのかが決まる筈です。私はこの「黙狂者」は既に《死》へとその歩を進めてしまった、つまり、中有に踏み迷ってゐると考へてゐますがね。
――それでは、何故にその事をこの方に問はないのですか?
 と、雪が言ふと、甲君が、
――それはこの「黙狂者」君には無理難題ですよ、雪さん。この《杳体御仁》たる「黙狂者」君が、今、己がゐる処が解かれば、「黙狂者」君は黙狂になど為らずに今でも流暢に朗朗と彼独自の存在論を話してゐる筈ですが、如何せん、「黙狂者」君には今、己が何処にゐるのかさっぱり解からず、その《吾》の未知なるが故に《杳体》といふ考へを導き出さざるを得なかったのですから。
――つまり、この方が言ふ《杳体》は苦し紛れに思はず口走ってしまった妄言でしかないといふ事ですか?
――いえいえ、雪さん、そんな事はありません。唯、これまで全宇宙史を通して《存在》を語り果せた《もの》は《存在》しない筈で、それは《神》にも当て嵌まり、《神》が《存在》を熟知してゐるならば、諸行無常な世などあり得る筈もなく、つまり、それは如何なる思念でも《存在》を捉へられず仕舞ひなのが、この「黙狂者」君にはそれが我慢がならないのです。つまり、それは《存在》の堕落でしかないのです、この「黙狂者」君にとっては。例へば物質の根源を探ってゐた時に、どうしても《存在》が知られてゐた物質だけでは論理的に説明出来ない現象を、湯川秀樹がπ中間子といふ新しい素粒子を導入する事で論理的に説明出来たやうに、この「黙狂者」君は、今の処、何《もの》も《存在》を摑まへられず仕舞ひなのは、《存在》には決定的な欠落があって、それがこの「黙狂者」君には新たな《杳体》を導出する事で、《存在》が浮き彫りになると考へた事が全ての発端の筈です。
――つまり、この方が言ふ《杳体》とは版画で譬へるならば、版木に対する墨といふ事でせうか?