審問官第二章「杳体」
――それはさうですが、しかし、何時の世も、《存在》をぴたりと言ひ当てる言葉は《存在》してゐなかったのではありませんか?
――いいえ。嘗ては《神》が確かに《存在》してゐました。つまり、発話とは信仰と深く結び付いた《もの》でなければ、それは全て嘘でしかありません。それ故に嘗ての「現存在」が発話する言葉には《吾》といふ《念》が宿り、つまり、言霊が確かに《存在》してゐたのです。
――それは呪詛ではありませんか?
――ええ。呪詛でも構ひません。嘗ては発話にはそれだけの不可思議な《力》が宿ってゐたのですが、翻って現代では、言霊を信じてゐる人がどれだけゐると思ひますか?
――さうですね、皆無ぢゃありませんか。
――さうです。言霊はすっかり失はれてしまったのです。
――しかし、言霊信仰は呪詛があるやうに現代ではOccult(オカルト)的で危険です。
――あら、どうして、丙さん?
――う~ん、何と言へばいいのかな……つまり、現代人には既に言霊を背負ふだけの膂力が蒸発してしまってゐます。
――うふっ、さうですね。でも、現代人の潜在能力として言霊を担ふだけの膂力は残されてゐるに違ひないと、私には思へます。
――と言ひますと、例へばどんな処に、雪さんはそれを感じますか?
――例へば誰しもその《存在》が《死》の淵に追ひ詰められれば、必ず信仰告白をする筈だと思ふのです。
――つまり、雪さんは、現代人もまた、《神》を信仰してゐると?
――はい。それは間違ひありませんわ。
――それでは、《神》のない仏教を何と思ひますか、雪さん?
――あら、仏教にもちゃんと《神》がいらっしゃるぢゃありませんか。つまり、釈迦牟尼仏陀といふ《神》が。
――確かにヒンドゥー教では仏陀は《神》の一人として崇められてゐますが、しかし、仏教徒の全ては、『色即是空、空即是色』の境地を欣求して已まぬのではないですか?
――その境地とは釈迦牟尼仏陀に重なる事でせう。
――ふむ。
――ほら、どうした丙君、押されっ放しぢゃないか!
と、再び甲君が半畳を入れ、そして、雪に軽くウィンクをして見せたのであった。
――うふっ、甲さんて、本当にお優しいのですね。
――つまり、雪さんは正覚する事を何とお考へですか?
と、丙君が甲君には構はず再び尋ねたのであった。
――さうねえ、しじま……かしら。
――しじまですか?
――はい。無音の中で全ての《存在》の呟きが聞こえ、さうして《存在》は己の事を全て語り尽くせる境地が、正覚に違ひありません。
――すると、雪さんは、この《杳体御仁》に正覚者を見てしまったといふ事ですか?
――さうですね。さう言はれてみれば、さうに違ひないのですが、一方で、私はこの方に《存在》の業を強く感じたのです。
――《存在》の業と言ひますと?
――つまり、パスカルの深淵に図らずも突き落とされて、この方の場合はそれ故に瀕死の状態に陥ったにも拘らず、そこで決して《生》を諦める事無く、また《生》に意地でも拘るその生命力かしら?
――生命力ですか。この「黙狂者」君に生命力があるとは私には全く思へませんがね。
と丙君が言ふと、甲君が、
――おいおい、雪さん相手に鎌をかけてどうする?
――あら、甲さん、私は構ひませんわ。そして、丙さん、この方は、現在、《死》の淵をよろめきながら歩いてゐるのですわ。何故って、今の処、この方が《死》ぬやうには誰も思はないでせう?
――それはさうですが、しかし、「黙狂者」君は、私の眼には只管己の《死》ばかりを欣求してゐるやうにしか見えませんが?
と、丙君が言ふと、甲君がまたぱちりと雪にウィンクして見せたのであった。雪もぱっと周囲が明るくなるやうな美麗の笑顔を見せながら、丙君の問ひに答へたのであった。
――それがこの方の生命力の為せる業なのです。
――それはまた何故に?
――丙さん、御免なさい。ちょっと煙草を吸ってもいいかしら?
――ああ、どうぞどうぞ、皆、Heavy smoker(ヘヴィ・スモーカー)ですから気にせずにどうぞ。
と、丙君が言ふと、雪は、鞄から煙草とLighter(ライター)を取り出して煙草を一本銜へると「しゅぼっ」と、火を点け、一息、深深と煙草の煙を呑み込んだのであった。
雪は、やはり、未だ、「男」に対しては緊張してゐたのだ。それでも私が傍らにゐる事で何とか君等に対する事が出来たのだ。雪は飽くまで、その時平静を装ってゐたが、どうやら、緊張が限界に達したので煙草を呑まざるを得なかったのだらう……。
それにしても、雪は、本当に美味さうに煙草を吸ふのであった。
そして、吾吾もそれぞれ思ひ思ひに煙草を銜へて一服したのであった。
――丙さん、この方に生命力があると私が看做すのは、かう言ふ論理です。つまり、余程の生命力がなければ、《死》なずにずっと、《死》の淵、つまり、それが《パスカルの深淵》とするならば、普通であれば、その深淵の淵を何時迄経っても、うろつくことなど不可能なのです。《パスカルの深淵》に追ひ詰められた《吾》は、即座に《死》するか、《パスカルの深淵》から脱する筈なのです。
――つまり、雪さんにとっては、この「黙狂者」君は、《死》も《パスカルの深淵》の脱出も図らぬ事に驚嘆してゐるといふ事ですね?
――ええ。尋常ぢゃありませんもの、うふっ。
――雪さん、それではこの《杳体御仁》は、現在、何をしてゐるとお考へですか?
と、文学青年の丁君が珍しく澱みなく言ひ切ったのであった。
――さうねえ、多分、自分殺しでせう。
――自分殺し?
――はい。この方は、《吾》を何としても炙り出さうと、己の中に巣食ふ幾人もの自分を虱潰しに次次と殺していって、最後のどん詰まりには《吾》が見出せるに違ひないと思ってゐる筈です。
――成程。雪さんもさう睨んでゐたのですね。
とヴァン・ゴッホ気狂ひの甲君が相槌を打ったのであった。
――よお、《杳体御仁》、本当の処はどうなんだい?
と甲君が私に尋ねたので、皆が再び私を凝視し、私が大学Noteに何を書くのかをぢっと息を殺して待ってゐるのであった。
私は、また、仕方なく、
――つまり、私は、つまり、現在、つまり、主体弾劾を、つまり、行使してゐる。
――ふっふっふっ。主体弾劾と来たか! 成程。すると、雪さんの、また吾吾の睨んだ通りといふ事だね。だがね、《杳体御仁》、それを独りでやらうとは水臭いぢゃないか。苦しければ吾等にしがみ付いても構はないんだぜ。
と甲君が、何か愛おしい愛玩動物を愛でるやうに私を見たのであった。
――本当に甲さんてお優しいのですね。
と雪が今更ながらに感嘆するのであった。
――此奴の優しさは今に始まったことぢゃないからな。此奴に遭った途端に、このゴッホ気狂ひの魅力の虜にならない人間は、多分、殆ど皆無に違ひない。つまり、このゴッホ気狂ひの甲といふ人間は《存在》を愛して已まないのさ。
と君が言ったのであった。
――さうですね。甲さんはきっと《存在》の底無しの哀しみをご存知なのですわ。
――それはまたどうして?
と君が雪に訊いたのであった。
作品名:審問官第二章「杳体」 作家名:積 緋露雪