審問官第二章「杳体」
――《存在》は土台、「邪」なる《吾》、「悪」なる《吾》、そして「醜」なる《吾》を《異形の吾》として「先験的」に抱へ込むやうに仕組まれてゐて、ところが、《存在》が此の世に《存在》する以上、その事から目を背ける事は許されてゐない《存在》として、森羅万象はその《異形の吾》からの遁走の道はこれまた「先験的」に自ずと断たれてゐて、《吾》といふ《存在》は《存在》するだけで既にのっびきならぬ《存在》の立ち位置に《存在》させられてゐるのが実際の処だらう。
と、君が言ったのであった。
――それで? 君の言は全てがこの《杳体御仁》の「黙狂者」君の受け売りだらう?
と、甲君が言ひ、其処で君は、
――だから、《存在》は「先験的」に苦悶する事を余儀なくさせられてゐる《もの》と看做せるのぢゃないかね、甲君。
と、君は言ったのであった。すると、猊下たる丙君が、
――しかし、それでは現状を唯、承認、若しくは追随したに過ぎぬのもまた事実だらう?
――さう。丙君の言ふ通り、《存在》が「邪」、「悪」、「醜」なる《吾》を承認する事は、《存在》が《存在》する以上、当然の事で、丙君の言ふ通り現状維持に過ぎぬのだが、しかし、此の《吾》はその事が口惜しくて堪らないのもまた事実だらう?
と、君が言ったのであった。すると雪が、不意に、
――では、形而上には「邪」、「悪」、そして「醜」は《存在》しないといふ事ですの?
と尋ねたのであった。
――形而上に「邪」、「悪」、そして「醜」があるのかどうかをはっきりとお答へする資格は、そもそも私にはありませんが、尤も、《存在》は形而上には「邪」、「悪」、そして「醜」のない仮象世界を思ひ描きたい欲望はあるとは思ひますが。
――うぅぅぅぅあぁぁぁぁああああ~~。
――それでは××さん、形而上と理想郷の違ひは何なの、うふっ。
――其処に明白な違ひは多分ないと思ひますが、だからと言って、神代の時代に「邪」、「悪」、そして「醜」がないと言へば、それは全く逆で、神程、傲岸不遜で此の世に《存在》する《もの》の中で最も「邪」、「悪」、そして「醜」の振舞ひの限りを尽くした《存在》は、世界中の神話に照らせば明らかで、それから推察しますと、形而上にも「邪」、「悪」、そして「醜」は残念ながら《存在》すると看做した方が自然ですね。
――しかし、××さん、形而上の《存在》の全ては、己が今行ってゐる事が「邪」、「悪」、そして「醜」なのかを自覚するきっかけを全く失ってゐると思ひませんか?
――さうですね、雪さん。形而上の《もの》は、全て《吾》といふ観念から解放されてゐますね。
――さうかしら?
――と言ひますと?
――形而上の《もの》は、唯、《存在》する事に夢中なのぢゃありませんか? つまり、究極の自己陶酔の中にあるといふ自覚が何処まで行っても見出せないだけだと私は思ひますわ。
――それは、つまり、魂が渇望する《世界》にこそ、形而上の何たるかが啓示されてゐて、それをこの《現実》といふ超自然的な人工世界が図らずも代弁してゐるとお思ひなのですね、雪さん。
と、君を押し留めて丙君が訊いたのであった。
――現在の此の世の《他》の頭蓋内の脳といふ構造をした闇、それをこの方は《五蘊場》と呼んでゐますが、その《五蘊場》に表象された《もの》で埋め尽くされたこの超自然的な人工世界が、此の世の森羅万象が渇望して已まなかった理想の《現実》だった事は、多分、間違ひない事なのだと思ひます。つまり、此の人工物が犇めく此の《現実》こそ形而上の《世界》の一様相を表わしてゐて、その事により、此の世の森羅万象は底知れぬ虚無感に、今現在、苛まれてゐる、そして、多分、その人工世界が崩壊を始めて新たな世界観を生み出すべくParadigm変換の変動期に、私達は居合はせてゐるに違ひないと私には思へて仕方ないのです。
――すると、雪さんが、××君に問ふた『形而上に「邪」、「悪」、そして「醜」が《存在》してゐるか?』といふ命題は、雪さんの中では既に自明の事で、やはり、形而上においても「邪」、「悪」、そして「醜」は《存在》してゐるけれども、形而上での《存在》の全ての《もの》はその《存在》自体に夢中為るが故に、己の振舞ひが「邪」、「悪」、そして「醜」と自覚される事は未来永劫に亙ってないといふ事ですと、それでは《存在》が此の世に何としても歯を食ひ縛り、砂を噛み締めながらも《存在》する事の希望といふ《もの》は、最早残されていないと?
――はい。希望は、元来、此の世にも、形而上にも《存在》した形跡はありません。
――すると吾吾が希望と呼んでゐる《もの》の正体は何と?
――我執、我慾等等、《吾》が《吾》であるかもしれないと一瞬でも思はせて呉れる架空の《もの》の事を《吾》は希望と呼んでゐると私には思へて仕方ないのですの。
――つまり、希望は、此の世に《存在》する為の阿片といふ事ですか?
――はい。私はさう看做してゐます。
――しかし、此の世に希望が無いといふ事は、多くの《存在》にとっては、その《存在》を支へる支柱を失ふ事に直結し、此の世は此の世の初めの渾沌状態に逆戻りしてゐる事になりませんか?
――はい。だから、先程、私は現在、新たなParadigm変換の変動期を迎へてゐると申したのです。
――うぅぅぅぅあぁぁぁぁああああ~~。
――すると、《吾》は今一度《吾》の創り直しを行ってゐる状態に現在あるといふ事ですか?
――はい。うふっ。そんな事、私にお訊きになる前に丙さんには既にお解かりの事ぢゃありませんの? うふっ。
――へっ、古狸の化けの皮が剥がれたな、丙君!
と甲君が此処ぞとばかりに半畳を入れたのであった。
――確かに雪さんの仰る通り、私には或る偏向した観念が《吾》に対してあるのは間違ひありませんが、それだから尚一層、私には《吾》が何を指してゐるのか解からなくなってしまふのです。
――あら、そんな事、誰もが同じ事ぢゃありませんの? 丙さん。
――やはりあなたも吾等と同類のパスカルの深淵の住人なのですね、雪さん。
と丙君は苦笑ひしながら言ったのであった。そして、丙君と同じやうに笑顔で雪が、
――うふっ、パスカルの深淵の住人ですか? つまり、私も穴居人といふ事ですね?
――はい、さうです。雪さんもまた穴居人です。立派なパスカルの深淵の住人です。
――それは褒め言葉ですの、うふっ。
――さあ、それは解かりませんが、吾等は《吾》に躓いてしまった《存在》である事は間違ひありませんね。
――《吾》に躓かない人なんて此の世にゐるのかしら?
――へっ、そりゃさうだ、なっ、丙君!
と甲君が、嬉嬉として言ったのであった。
作品名:審問官第二章「杳体」 作家名:積 緋露雪