審問官第二章「杳体」
と雪が興味津津の態で私に愛らしい笑顔で尋ねたのであった。私はと言ふと、暫くは知らぬ存ぜぬを決め込んでゐたのであったが、誰もが押し黙ったまま皆で私を見詰めてゐるので、仕方なく私は大学Noteにかう書いたのであった。
――つまり、主体は、つまり、現在、つまり、訳も解からず、つまり、その在り処を、つまり、喪失した、つまり、根無し草としてしか、つまり、《存在》する事を、つまり、許されなくなってしまった。
――さうかな?
と、君が訊いたのであった。
――つまり、主体は、つまり、その《存在》する、つまり、根拠を、つまり、見失ってしまってゐる。
――さうかな?
と再び君が訊いたのであった。そして、君が、
――私の見る処によれば、主体は、自らの肥大化に《吾》ながら驚いてゐるに過ぎぬと思ふがね?
すると、雪が君に、
――××さんは、この《杳体御仁》と呼ばれ、現在、「黙狂者」になってしまったこの方をどう見てゐますか?
と、訊いたのであった。すると、私がすかさず大学Noteに、
――つまり、私は、つまり、《主体弾劾者》さ。
と、書いたのであった。
――うふっ、いきなり《主体弾劾者》と言はれても、何の事かさっぱり解からないわ。
――解かる筈ないさ。だってこの「黙狂者」たる彼にすら《主体弾劾》が何なのか全く解かってゐないのだからね。
と、君が雪に言ったのであった。
――へっへっ、さうかね、この「黙狂者」君は、最早、肥大化するに任せたまま、余りに肥大化してしまった主体の有様が、決して許せずに、それ故にその肥大化してしまった《吾》が断じて許せず、己を許せぬが故にこの「黙狂者」君は、遂には言葉を発せられなくなってしまって、さうして自ら語る事を断念して、そのまま口を噤んだまま独り「黙狂者」として此の世に恬然と屹立する事を自ら選んだのさ。
と、甲君が言ったのであった。
――では、甲さん、この方を《杳体御仁》とお呼びになるのはどうしてですか?
――何ね、この「黙狂者」君によると、主体は埴谷雄高が生涯を賭けて追ひ求めた《虚体》を欣求してゐた牧歌的な時代はとっくの昔に終はってゐて、彼が言ふ処の《杳体》といふ杳として何の事かさっぱり解からぬ《存在》、へっ、それを《存在》と呼んでもいいのか俺には解からぬが、その《杳体》を闡明する事でのみ、肥大化に肥大化してしまった主体は、生きも出来、死ぬ事も出来ると、この「黙狂者」君は、考へてゐるのは確かだね。
と甲君が飄飄と言ったのであった。
――甲さんは、《主体弾劾者》といふ《もの》をどうお思ひですの?
――この「黙狂者」君は、得体の知れぬ《存在》に対して正面突破攻撃をおっ始めたのさ。
と甲君が言ったのであった。
――《存在》に対する正面突破攻撃が《主体弾劾》ですって! それはもしかすると自殺行為と同じぢゃありませんの!
――へっへっ、雪さんの仰る通りだがね。この「黙狂者」君は、その自殺行為を観念の世界でのみ、只管、行ふ事で、その観念に依ってのみ《存在》を捻じ伏せる事が可能と考へたのさ。つまり、Idea、日本語にすると《念》ずることでのみ《存在》は捻じ伏せられると、この「黙狂者」君は独り《主体弾劾者》となる事で、実践してゐるのさ。
――それは甲さん、あなたも同じといふ事ですの?
――いいや、俺は全く逆ぢゃないかな。俺の場合は、主体は此の世界から気付かぬ内におっぽり出されて、遂には己の居場所を此の世で見失っちまったと思ってゐます。
と甲君が尚も飄飄と言ひのけたのであった。すると、雪が、
――此の世界から抛り出された主体ですか……それは、さもありなむ、と言へますね、うふっ。
と、雪は愛らしい笑顔を私に向けたのであった。
――つまり、甲さんが仰る世界=外といふのを象徴するのが、電気的に画像を映す《画面》といふ《存在》の有様を指しての事でせう、甲さん?
――それは、一つの象徴でしかありません。
――それでは、甲さんは、何をもって此の肥大化に肥大化した主体を世界から抛り出された《存在》と定義付けてゐるのですか?
――それを簡単に言へば、肥大化した主体が生きれば、世界を頭蓋内の闇の脳といふ構造をした《五蘊場》に表象された《もの》に変へてしまふといふ事です。
――つまり、甲さんに言はせると、主体は《存在》するだけで世界を自分の都合がいい《もの》に変へてしまって、世界の恐怖の《面》を何処かへ追ひやるといふ事ですわね?
――まあ、簡単に言へばさうですが、しかし、主体が肥大化すればする程、世界は主体に都合がよくなければ主体の《存在》は成り立たない。
――それは何故ですの?
――つまり、主体が肥大化するとは、世界を主体から遠ざける事を意味しますが、しかし、実際の処、主体が世界をおっ払ふ事なんぞ出来る筈がない。つまり、主体は、突然豹変する世界の恐怖の《面》を見る間もなく世界に殺されちまふのです。
――つまり、甲さん、現代人は誰もが世界の素面を全く知ることなく、世界に《死》の《面》が現はれれば、忽然と《死》す、換言しますと、現代人は世界を全く知らずに生きてゐるといふ事ですの?
――はい、その事が淵源だとは気付くこともなく、現代の主体は、それが何であれその内部で増幅されるに違ひない《不安》を、それとはまた気付かずに、しかし、主体は漠然とそれを感じてはゐますがね、しかし、主体はそれから目を逸らし、余りに羸弱な世界の一様相のみを主体の肥大化と世界を同調させて、主体はそれを主体同調世界と呼べば、その主体同調世界を主体はそれとは全く気付かずに肥大化させてるのです。そして、雪さん、主体はそんな歪な世界を世界と看做してゐるのですが、そんな世界を雪さんは世界と呼べますか?
――いいえ、それでは主体はそれが何であれ「先験的」に盲人だと言ふのと何ら変はりがないぢゃありませんか!
――さうです。主体が肥大化すればする程、世界は主体には見えなくなるのです。
――それが、世界=外といふ事ですの?
――さうです。現代に《存在》する主体は全て目隠しされた《存在》なのです。つまり、一寸先は闇の世界と何ら変はりがないのです。
――それで、甲さんは絵を描くことで世界を見出したいのですね?
――へっへっ、それはどうぞご勝手に。私の事はどうでもいいぢゃありませんか?
と、甲君は少しはにかみながら言ったのであった。
――甲さんの話からすると、此の世の森羅万象はそれが全て主体と定義付け出来得ると仮定したならば、何《もの》も最早、世界を見失ってゐて、それは、つまり、主体が主体を見失ってゐるといふ事ですわね! うふっ、すると、甲さんによれば、世界が回復するには、先づ、主体の再生が不可欠といふ事ですわね?
と、雪は薄らと楽しげな笑ひをその窈窕な相貌に浮かべて言ったのであった。すると、
――主体の定義付けは君の仕方ではその本質を見失ってしまふ事間違ひなしだが、君はその事に気付いてゐるのかね?
と、丙君が言ったのであった。
――俺の事なんぞどうぞご勝手にと言った筈だがね、丙君。
――だが、君の主体の見立ては、一面的過ぎやしないかね?
――例へば?
――例へば、世界は主体の都合で変へられるなんていふのは単なる幻想でしかない。
――だから?
作品名:審問官第二章「杳体」 作家名:積 緋露雪