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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第二章「杳体」

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 この不快極まる声為らざる唸り声は、死者が《死》を受容するその儀礼に違ひなく、私もまた、己が死す時に私自身がこのやうに声為らざる唸り声を発しながら、浄土か地獄へ向けてゆるりと移りゆくに違ひないのだ。
…………
…………
――何がご名答なのかね? 甲君。
 と猊下たる丙君が甲君の哄笑を遮るやうに重重しく尋ねたのであった。
――いや、何、私において、私の内部に巣食ふ何《もの》かが不意に『ぷふぃ。』と嗤ひ声を発した刹那の《吾》の底無しの孤独感に、私は《無限》といふ観念を惹起せざるを得なかったのさ。
――ふむ。成程、君の内部にも得体の知れぬ何《もの》――それを私は《異形の吾》と名付けているがね――その何《もの》かが君の内部で不意に『ぷふぃ。』と嗤った刹那の寂寞感に、君は《無限》を見出すか――。ふはっはっはっはっ。
 と猊下たる丙君が尚も続けたのであった。すると、甲君が、
――君にヴァン・ゴッホの苦悶が解かるかね?
 と今度は甲君が丙君に尋ねたのであった。
――成程、君の内部の『ぷふい。』といふ嗤ひ声はゴッホにおける烏のやうな《もの》なのだね?
――否。ヴァン・ゴッホの苦悶は、《世界》に最後通牒を突き付けられた、つまり、《世界》に見捨てられちまったその言語を絶する絶望故に、最早、絵画といふ表現手段しか残っていなかった《存在》の苦悶なのさ。――ぶはっはっはっはっ――。
 と、甲君は再び哄笑して、その場が重重しい雰囲気に雪崩れ込むのを堰き止めるやうに、甲君は哄笑して、その場の雰囲気を一変させたのであった。
――ちぇっ、哀しい哉、それが、君の優しさなのだ、甲君。
 と丙君が言ったのであった。
――まあ、俺の事なんぞどうぞご勝手に。ところで、乙君、君は何故に「一」に疑念を抱いたのかね?
 と、甲君が訊いたのであった。すると、乙君が、
――何ね、オイラーの公式を知ってしまった時かな、はっきりと私は「一」に対して「一」である事に疑念を抱いたのは。
――つまり、「一」と虚数iの不思議な関係だらう。
――さう。私は、それ以前、虚数は数学上、数字を拡張せざるを得ずに見出された数字の事だとばかり思ってゐたのだが、つまり、数学が進歩し、人間の文明も進歩した故に、のっぴきならぬ処で、数学者は虚数iを渋渋受け容れたとの先入見を持ってゐたんだが、オイラーの公式を知ってしまふと、虚数iは「一」といふ《存在》に必要欠くべからざる《存在》として、此の世に厳然と《存在》する《もの》といふ認識に至る外なかったといふのが本当の処かな。
 と、乙君は言ったのであった。すると、雪が、乙君に尋ねたのであった。
――オイラーの公式に関しては先程、お伺ひしましたが、乙さん、あなたにとってオイラーの公式に出合ふ以前は、「一」は一体全体何だったのかしら?
――此の世の開闢を象徴する、つまり、《無》たる零の《世界》に「一」といふ《存在》が忽然と現はれ、その出現に対する《存在》の大歓喜の雄叫びが、私にとっての「一」といふ《存在》だったのです。
――さうですか。大歓喜の雄叫びですか――。乙さんは、今も「一」に対しては同じ感覚を持続してゐますね?
――ええ、オイラーの公式を知って、尚更、「一」は《存在》の大歓喜の雄叫びだと思ってゐます。
――「一」が《存在》の大歓喜の雄叫びだと? それは異な事を言ふ。
 と、甲君が乙君の言を遮ったのであった。
――では、甲さんにお伺ひしますわ。甲さんにとって《存在》とは何ですか?
 と雪が尋ねると、
――へっ、何を藪から棒に!
――甲さんは、御自分の事は語らず、《他》の事にばかり感(かま)けてゐるやうに見えるので、甲さんの存在論的のやうな《もの》を拝聴したくお伺ひしたのです。
――さう。君は何時も己の事になると茶化してその場を逃げようとするが、実際の処、甲君、君は、己の底知れぬ哀しみを《他》に知られる事を極度に嫌ってゐるが、それは何故かね?
 と猊下たる丙君が言ったのであった。
――そして、甲君、君は良くも悪くも《他》に優し過ぎる。私には、君は独り自己破壊する事が君の存在理由に思へるのだが、もうそんなピエロの仮面を外して、君の正体を見せてもいいのぢゃないかな。
 と尚も丙君が続けたのであった。
――今でなくてもそれは構はぬではないかね? 俺がピエロの仮面を外す時は、自分で決めるよ。それを《他》に強要されたくはないなあ。
 と甲君が言ふと、雪が甲君に尋ねたのであった。
――甲さんが、何故にこのヰリアム・ブレイクを読む勉強会、いえ、サロンね、このサロンに参加してゐるのか何となく解かるやうな気がします。甲さんは、己の存在理由を此方の丙さんに対峙させる事で、つまり、丙さんを己を映す鏡として、其処に映る此の世の仮初の己の姿形を凝視する事で、甲さんの内部では途轍もない葛藤が起きてゐて、甲さん自身が自ら率先して自分を追ひ詰める事を通して、甲さんはやっと今を生きられるのですね? 違ひますか、甲さん?
――まあ、俺の事なんぞはどうとでも勝手にどうぞ。所詮、俺の事など丙君の前では戯言でしかないのだからね。さうだらう丙君?
 と甲君がにたりと笑って言ったのであった。
――雪さん、甲君は最後の最後までその正体の尻尾すら見せませんよ。甲君は普段己を圧し殺す事で何とか絵が描けるのですよ。彼の絵を御覧に為れば、彼の苦悩の深さに驚かれる事でせう。
 と丙君が言ふと、甲君が、
――何を言ひ出すのかね、丙君。俺の絵の事はこの場に持ち出さなくてもいいぢゃないか。
――別段、隠す事でもなからう。雪さんを除いて此処にゐる《もの》は全て甲君の絵は見た事があるんだから。丙君の言ふ通り、君の絵には君の苦悩の深さがよく表はれてゐる。
 と君が言ったのであった。
――さうさ。君の絵には例へば梶井基次郎の「檸檬」に匹敵する何かが確かに《存在》する。
 と文学青年の丁君がさう言ったのであった。
――ちぇっ、乙君の「一」からとんだとばっちりを受けちまったぜ。まあ、俺の絵を皆にさう見られてゐる事は嬉しくもあるが、その嬉しさには君等には解からぬ憂ひが含まれている事は、ちぇっ、解かる筈もないか。くっくっくっ。
 と甲君は嗤ひながらさう言ふと、乙君が、
――所詮、《他》は《吾》にとっては超越論的な《存在》で、君は、それをたった独りでぶち壊さうと躍起になってゐて、それは見てゐる此方は、とても痛痛しくて見てらんない《もの》なのだよ。
 と言ったのであった。すると、雪が、乙君に、
――それは、甲さんが、《吾》の破壊を欣求してゐるといふ事かしら?
――ええ、それ故にか、この《杳体御仁》の「黙狂者」君と甲君はとても馬が合ふのです。
――それは本当ですの?
――はい、さうです。甲君とこの「黙狂者」君は不思議と馬が合ふのです。多分、方法は違へども、その目指す処は、二人とも同じなのかもしれません。
 と乙君が言ったのであった。
――うふっ、ピエロと「黙狂者」、面白い組み合わせね、あなた?
 と雪は楽しさうに私に語りかけたのであった。
――ちぇっ、余計な事を!
 と甲君が笑顔で言ったのであった。
――ねえ、あなたは甲さんの事、どう思ってゐるの?