審問官第二章「杳体」
――丙さん、この《吾》が、《吾》の《存在》を「《吾》あり」と《念》じた時点で、既に《吾》は《無限》を吾にすら全く知れぬ内に《吾》といふ観念が想起すると同時に《無限》を《吾》と同じく確証してゐるのぢゃありませんか?
――ほれ、丙君、どうした?
と、ヴァン・ゴッホ気狂ひの甲君が囃し立てたのであった。丙君は、相変はらずぎろりと鋭き眼光を放つ目を甲君に向けたまま、更に次のやうに言ったのであった。
――雪さん、あなたは《無限》をどのやうな《もの》として想起してゐますか?
――私以外の全て、かしら。
――成程、《吾》以外の全てが《無限》ですか。つまり、「《吾》あり」と《吾》が《念》ずる時点で、《吾》は《吾》以外の《存在》を「先験的」に想起してゐるといふ事ですね?
――ええ。しかし、《吾》はそれが全て意識下で行ってゐる事に気付く《もの》はまだまだ少なく、《吾》が《存在》する事は、恰も何事もないかの如くに確たる《もの》として認識してゐる事が如何に無邪気な事か全く気付かない場合が殆どですね。
――しかし、《吾》は直ぐに《吾》の《存在》に対する確信が全くの虚構でしかない事を匕首の切っ先を首に突きつけるやうに此の《世界》に認識させられ、そして《世界》は《吾》の虚構を己に対して絶えず暴き続けるのです。
――しかし、殆どの《吾》といふ《存在》は知らぬが仏で、《世界》の《吾》に対する《吾》が虚構であるといふ要請を察する事が出来ないのですが、しかし、その中にも、此の《世界》に対して憤怒する《もの》が必ず《存在》するに違ひない筈ですね。つまり、「黙狂者」のこの方は、独りでその《世界》の要求を無理難題として《世界》に対して反攻を始めた、といふ事かしら? つまり、此処にゐる誰もが此の《世界》は、《吾》に対して無理難題を突き付ける厄介至極な《もの》と看做してゐると考へて宜しいでせうか?
――はい。
と、甲君、乙君、丙君、丁君、そして君は、皆、雪に同意の意を表したのであった。
――それでは、あなた方は何によって此の《世界》が《吾》を虚構に過ぎぬ事を要請し、また、《吾》に対して《世界》は無理難題を圧し付けるといふ事を意識し始めたのですか?
――その前に、雪さんは、此の《世界》は《吾》に対して理不尽極まりない事を要求してゐるとお思ひですね?
――ええ。私は憎悪すら感じてゐます。
――それはまたどうして?
――それに関してはまだ私自身語れる心境にないので、これ以上は訊かないでください。お願ひします。
――ふむ。さうですか。何か深い事情がありさうですね。
――ええ。「黙狂者」のこの方は、多分、私が抱え込まざるを得なかった苦悶の原因を察っしてゐて、そのどす黒い憎悪の何たるかを直感的にこの方は知ってゐると私には思へますが、これ以上はご勘弁を。
と、雪は自身の内部を弄るやうにさう言って、何とも奇妙な、それでゐて哀しい微笑を浮かべたのであった。
――どうも雪さんの触れてはいけない《もの》に触れてしまったやうですね。御免なさい。これ以上はもう訊きませんので。
――いえ、今日お会ひした人達ばかりですもの、仕方ありませんわ。気にしないでください。
――それでは、雪さん、雪さんが《世界》へ反攻するに至った訳は訊きませんが、しかし、雪さんは、《無限》を《吾》以外の全てとの思ひに至ったその思惟経路は何だったのですか?
――さうですね……、幼児期に薄ぼんやりと《世界》に対して抱かざるを得なかった渺茫とした感情が、端緒と言へば端緒に為るのかしら。
――つまり、それは、《世界》は《吾》を既に見放してゐる感情に近しい《もの》だったと思ひますか?
と、猊下たる丙君が訊くと、雪は、
――いいえ、私といふ《存在》を思った時に自然に湧き起って来た感情だった筈です。
――つまり、「《吾》あり」と《念》じた刹那、その何とも茫漠とした渺茫たる孤独感は、《吾》知らず止め処もなく湧出した感情ですね?
――さうだと思ひます。それでは、皆さんは《無限》を意識するやうになった端緒は何でせうか?
――私は人込みで特に感じる底無しの孤独感です。
と、猊下たる丙君が先づ、話したのであった。そして、
――俺は、丙君に出合った刹那かな?
と、甲君がその場を茶化すやうに言ったのであった。
――僕は、「一」に対する疑念を感じてしまった刹那かな。
と、ヰリアム・ブレイク好きで数学専攻の乙君が言ったのであった。
――私は、梶井基次郎の作品に出合った時……。
と、文学青年の丁君が言ったのであった。すると、君が、
――私はこの「黙狂者」の彼に出合った事かな。
と、君は照れ笑ひを浮かべながら言ったのであった。
――それでは、あなたは何時《無限》を感じたの?
と、雪が私に尋ねたのであった。其処で私はNoteにかう書いたのであった。
――つまり、私が、つまり、此の世に、つまり、誕生した、つまり、その刹那に、つまり、未だ言語も知らぬ、つまり、赤子とは言へ、つまり、何やら、つまり、私が私である、つまり、不自然さといふ、つまり、その何とも度し難い《もの》が、つまり、《存在》だと、つまり、感じ取らねば、つまり、ならなかった、つまり、私が、つまり、初めて、つまり、此の世で産声を発した、つまり、その刹那に、つまり、私は、既に、無意識裡に、つまり、私なる《存在》を知ってしまった、つまり、時が、つまり、私が《無限》を、つまり、思はずにはゐられなかった、つまり、刹那の困惑が、つまり、それに違ひない。
――つまり、あなたは、生まれた瞬間に既に《存在》に困惑してゐたといふのね? あなたらしい答へね、うふっ。
――しかし、普通《無限》と《吾》に踏み迷ひ、その陥穽に陥るのは大概、思春期と相場が決まってゐるぜ。
と、ヴァン・ゴッホ気狂ひの甲君が嗤ひながら言ったのであった。
――その自分の言葉を一番信じてゐないくせに、全く持って甲君らしい言ひ種だ。
と、数学専攻の乙君が茶化したのであった。
――いや、そんな事ないぜ。ぶはっはっはっはっ。
と、甲君は哄笑したのであった。
――まあ、議論を何時も煙に巻くのは、彼の性癖だからね。しかし、甲君、これは嗤って済む問題ぢゃないいよ。つまり……。
と、文学青年の丁君が再び言葉をぶつりと切って何かを自身に呑み込むやうに甲君に言ったのであった。
――それを言っちゃあお仕舞ひよ!
と、甲君は尚も哄笑しながら言ったのであった。
――つまり、君にとって《無限》を感じざるを得ぬのは、《存在》が「ぷふぃ」と嗤った刹那なのだらう。
――さすが、丙君、ご名答!
と、甲君は未だ何かがをかしくて仕方がない様子で尚もおちゃら化て丙君に言ったのであった。
――うぅぅぅぅあぁぁぁぁああああ~~。
ねえ、君、私の眼前には未だに消え去らぬ私の与り知らぬ赤の他人の声に為らざる唸りをぢっと聞くことを強要され、そして、あの時はその事を雪以外には気付かなかった筈だが、今はこれを読んでゐる君も知る処となった訳だ。今も私の鼓膜には、
――うぅぅぅぅあぁぁぁぁああああ~~。
と、私を困惑の坩堝にしか投げ入れぬ《他》の魂魄の叫びが、声に為らざる唸り声を上げてゐるのだ。
――うぅぅぅぅあぁぁぁぁああああ~~。
作品名:審問官第二章「杳体」 作家名:積 緋露雪