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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第二章「杳体」

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 と、甲君が薄ら嗤ひを口辺に浮かべて尚も飄飄と言ったのであった。
――多分、此の宇宙史は、《存在》が無限に思ひを馳せるその歴史とぴったりと重なるやうな気がする。
 と猊下たる丙君が言ったのであった。
――ぶはっ、つまり、それって、此の世は絶えず無限を夢想せずにはをれなかったといふ事だらう?
――無限が厭ならそれを《神》と言ひ換へてもいいぜ。さうすれば、君もよく解かるだらう?
 と丙君は、ぎろりと甲君を凝視して言ったのであった。
――へっ、それぢゃ、例へば単細胞でも《神》を欣求してゐるのかね? それ以前に素粒子そのものが《神》を欣求してゐると君は断言出来るのかね?
――私は、自然が《存在》するならば、素粒子もまた密かに《神》を欣求してゐると看做すぜ。
――それは、此の《杳体御仁》の「黙狂者」君の奇妙な汎神論を承認するといふ事だね?
――ああ。
 と、丙君は、薄ら嗤ひを口辺に浮かべた甲君に対して重重しく言ったのであった。
――其処で、一つお尋ね致しますが、あなたは、此の世の時空間に《神》は宿るとお思ひなのでせうか?
 と、雪が丙君に訊いたのであった。
――此の世の森羅万象に《神》が遍在してゐます。
 と、猊下たる丙君が答へたのであった。
――さうしますと、カントが唱へた《物自体》は、《神》の御神体といふ事になるのかしら?
――まあ、さう看做しても構ひません。そもそも此の《世界》のからくりが今もって《神》以外に知る《もの》がゐませんので、カントがいふ《物自体》も、例へばユークリッド、そしてリーマン幾何学の公理は、誰が「先験的」に定めたといふのか、と同じことだと思ひます。
――済みません。私、数学にはそれ程詳しくはないのですが、しかし、此の世に公準が《存在》する事が既に《神》の《存在》を包摂してゐるといふ事ですね?
――はい、さうです。
――では、もう一つお尋ね致しますが、此の世に無限が仮に《存在》すれば、即ち《神》は《存在》すると看做す事にあなたは何の疑念も抱かないのですか?
――まさか。私はそもそも猜疑心の塊みたいな《存在》です。それといふのも、私は《存在》は全て己に対して猜疑を抱かぬ《存在》は《存在》しないと考へてゐます。
――さうですね。では、あなたは、この「黙狂者」と呼ばれてゐるこの方の思索には賛意を表明なさるのですね?
――はい。だが、彼は《存在》、若しくは《物自体》、或るひは《神》に肉薄するべく孤軍奮闘するうちに、木乃伊取りが木乃伊になるやうにして、彼は最早己といふ《存在》の混迷した混沌の中に蹲ることを余儀なくされて、今や其処から這ひ出す術を全く見失ってしまった《存在》なのです。
 と、猊下たる丙君は眼光鋭く甲君を凝視したまま雪にさう語ったのであった。
――さうしますと、この哀しい「黙狂者」となってしまったこの方は、恰も闇にぢっと息を潜めて、その《存在》を何《もの》にも知られたくなく、闇といふ無限すらをも多分に呑み込むに違ひないその闇に、閉ぢ籠ってしまったといふ事かしら?
――はっきりとは言へませんが、「黙狂者」の彼は、観念といふ《もの》の恰もその地底に棲む穴居生物と化してゐるのは間違ひないでせう。
 と、猊下たる丙君が雪の問ひに答へたのであった。
――へっへっ、つまり、「黙狂者」君は、《存在》に蔽はれた闇の中で、《存在》といふ名の幽霊が辺りに犇めいている処で独り肝試しをしてゐるに過ぎず、そして、「黙狂者」君は、一歩踏み出す毎にびくりとして怯えてそのままその場に立ち竦んだまま、その時に芽生える己の感情をじっくりと味はひ尽くし、そして、へっ、この「黙狂者」君は、そんな己を自嘲するのさ。
 と、ヴァン・ゴッホ気狂ひの甲君が言ったのであった。
――それ以前に、彼は無限に睨まれてしまったに違ひない。
 と、数学専攻でヰリアム・ブレイク好きの乙君が言ったのあった。
――そして、彼は自同律を見失ってしまった。
 と、文学青年の丁君が言ったのであった。
――それは、二律背反に身を裂かれ、その状態に《存在》は、果たせる哉、堪へ得る《もの》なのか、彼は己を実験台にして試してゐる。
 と、君が雪へと言ったのであった。
――さうしますと、何だか「黙狂者」になってしまったこの方が、人類が背負はねばならぬ十字架、それは多分に基督が背負った十字架にとても近しい筈ですが、この方はたった独りでその人類誰もが背負ふ十字架全て背負ってしまってゐるといふ事かしら?
――或るひはさうかもしれませんね。
 と、文学青年の丁君がその痩せぎすで蒼白い顔にほんの少し微笑みを浮かべて雪へと答へたのであった。
――その十字架の別称は、《パスカルの深淵》ではありませんか、うふっ。
 と、雪は何とも楽しさうに誰彼となく問ふたのであった。
――さうですね。《パスカルの深淵》は「現存在」ならば、一度は目にする仮象の「先験的」な陥穽、そして、存在論的な危機に瀕した時には必ず目にする《もの》ですね。確かに、「黙狂者」の彼は、《パスカルの深淵》に或るひは身投げをしてしまったに違ひないですね。
 と、猊下たる丙君が雪の楽しさうな笑顔に呼応するやうにその鋭く光る眼光のままにその相好を崩して言ったのであった。
――ちぇっ、それは「黙狂者」君を少し買いかぶり過ぎてやしないかね?
――といふと?
――何ね、「黙狂者」君が陥ってゐる陥穽は、別に特別な事でもなく、日常にありふれた《もの》に過ぎず、現に此処にゐる《もの》は大なり小なり自同律の罠に引っ掛かって、《存在》を問はずにはをれぬ、そして、闇を、無限を、欣求せずにはをれぬ哀しき「現存在」ぢゃないかね?
 と、甲君が皮肉な微笑を口辺に浮かべて、これまた飄飄と言ったのであった。
――だが、この「黙狂者」の如く、己を自同律の裂け目、つまり、それを《パスカルの深淵》と呼べば確かに《パスカルの深淵》に違ひないが、その「黙狂者」の彼は、誰もが躊躇ふその陥穽を覗き込むだけでは飽き足らず、自ら身投げしてしまったのだ。
 と、丙君が甲君を再びぎろりと凝視しながら言ったのであった。
――「黙狂者」のこの方は《パスカルの深淵》に既に身投げしてしまったのですか?
――いや、本人ぢゃないので本当の処は解かりませんが、「黙狂者」の彼の生態を見てゐると間接的にですが、《パスカルの深淵》といふ《もの》を暗示せずにはゐられぬのです。
――それは、この方の何がさう暗示させるのですか?
――第一に彼は「黙狂者」といふ事です。
――それだけなのですか?
――そして、彼が「つまり」を多用せずには何にも表現出来ず、そして、「つまり」と書き連ねることで彼に内在する言葉を絞り出すやうにNoteに書き出すその語彙が、深淵に棲まふ《もの》特有の暗鬱な表現が多い、といふ事です。
 と、猊下たる丙君は甲君を凝視しながら雪の問ひに答へたのであった。
――それが過大評価だといふんだぜ。この「黙狂者」君は、決して《パスカルの深淵》なんぞに身投げなどはしてはをらず、唯、彼は《五蘊場》に全躯が逃げ込んだ仮象の《吾》に魅惑されてゐるだけに過ぎぬ。