審問官第二章「杳体」
――いや、雪さんて面白い人なんだなあと感心してしまったのです。この《杳体御仁》たる「黙狂者」君が、《存在》にその斥力に逆らひながらも何とか漸近するべく《杳体》なる《もの》を持ち出して《存在》、否、此の宇宙の摂理に反旗を翻し攻め込む事を企てたかと思ふと、雪さんもまた新たな造語を創るのがどうやら好きらしいやうなので、この《杳体御仁》と雪さんの組み合はせは、余程気が合ふんだらうなと、感嘆してゐるのです。
と、ヴァン・ゴッホ気狂ひの甲君がにやにやしながら言ったのであった。
――しかし、「人は麺麭のみに生くるに非ず」といふ箴言は、現在も尚、その輝きを失ってゐないのは間違ひない。
と、猊下たる丙君が重重しく言ひ放ったのであった。
――ふむ。今尚、難問だな、丙君!
と、甲君が冗談を飛ばすやうに半分ふざけて言ったのであった。更に甲君は続けて、
――つまり、これは愚問に違ひないのだがね、それは、或る《存在》が《生》であり続けるといふ事は、即ち、《他》の《死》が、現代ではその殺生の過程は極力隠蔽されてゐるが、やはり、《他》の《死》故に《吾》といふ《存在》は《生》を存続させてゐるといふ事に対して、人は、つまり、「現存在」は、その《死》に徹底的に弾劾されるこの《生》のからくりを無言で許容せずば、一時も生きちゃ行けない定めにあるといふ事実は、何がどう転ばうが、基督が此の世に確かに生きて《存在》した時代と何にも変はっちゃゐない事のみは、どう仕様もなく真実だといふ事だね。
と、甲君が、一見颯爽とした風貌に見えながら誰にも気づかぬ哀しい笑みを幽かにその口辺に浮かべながら、しかし、それは甲君にしか出来ない芸当なのであったが、その哀しみを蔽ひ隠してしまふ程に、甲君ならではの語り口で飄飄と言ったのであった。すると、雪が、
――しかし、《生》が生きるのに《他》の《死》を前提としてゐるのは、《生者》には何か疾しい事では決してない筈だわ。むしろ、殺生した《もの》は「人は麺麭のみに生くるに非ず」を実現するべく、「現存在」は、祈念=食しなければ、つまり、食べる事が、即ち、例へば《神》が《存在》するならば、その《神》に謝意を表明しつつ、それが祈念といふ形となって「現存在」は食事の度毎に祈りつつ、《生》を存続させるために《他》の《死》を食べる矛盾を祈念する事で止揚してゐるのぢゃないかしら?
――祈念=食?
と、猊下たる丙君がまたもや雪に尋ねたのであった。
――さう。祈念=食。《生者》が《他》の死肉を喰らふ事でしか《生》が存続出来ない以上、《生者》は食事時に限らず、絶えず殺生した《他》へ感謝するの。
――しかし、それは現に「頂きます」といふ言葉や、基督者の神への感謝の祈りなど、既に多くの《生者》によって実践されてゐます。
と、猊下たる丙君が、それでなくとも鋭い眼光を更に鋭く輝かせて言ったのであった。
――ええ。さうね。でも、かう言へば良いのかしら。自然における弱肉強食の、慈悲すらないやうに見える強者が弱者を喰らふ世界は、実は慈悲に満ちてゐて、強者は必要最低限の獲物しか捕らへず、また、餌を捕獲出来る確率も低いのが常で、弱肉強食の世界は実は持ちつ持たれつの世界であって、その世界の摂理に則って「現存在」の人間もまた、自身が《他》の餌になる事をも想像するの。而も、「現存在」の人間は、既に人肉を喰らってゐる行為と同じ事をしてゐることに思ひを馳せるべきぢゃないかしら。
――と言ひますと。人肉を食べる事と同じ事とは何ですか?
――臓器移植です。
――成程。つまり、人間は、人肉を喰らふといふ人の風上にも置けぬ愚行はしてゐない、といふのは或る種の先入見でしかなく、実の処、「現存在」の人間は、《死者》若しくは《生者》の腹を切り裂き、其処から臓器を取り出して、《吾》にその臓器を移植するといふ人肉食ひに等しき行ひを既に行ってゐるに等しいといふ考へ方は、本音を言へば、これは目から鱗が落ちる思ひですね。
と、丙君が言ったのであった。すると蒼白い顔がぱっと輝き出したやうに文学青年の丁君が尋ねたのであった。
――しかし、現在は医学と生物学が非常に進歩してゐて、再生医療へと邁進してゐるが……しかし――。
と、再び、ぶつりと言葉を噤んで話すのを止めてしまったのであった。
――それではお聞きしますわ。仮令、再生医療が極限まで進歩を遂げて、「私」の万能細胞から「私a」が再生出来たとすると、その新たに再生された「私a」は一体何でせうか?
――ふむ。それは難問ですね?
と、ヴァン・ゴッホ気狂ひの甲君が、誰も甲君の奇妙に顔を歪めて自身を嗤ひのめすやうな様に気が付かなかったが、その甲君がさう言ったのであった。
――《吾》が《存在》し、そして再生医療の極度の進歩で、その《吾》から《吾a》が再生され、更に《吾b》と、蜿蜒と再生され続け、遂には《吾∞》が《存在》可能な、譬へて言へば、それはウロボロスの蛇のやうに自身の口で自身の尾を喰らふかの如き《吾》の無限の円環が数珠繋ぎとして現出する時、つまり、《吾》が∞体《存在》するならば、例へば大元の《吾》の体躯の何処かが機能不全に陥った場合、《吾》は《吾a》から臓器を摘出し移植を受け、《吾a》は《吾b》からまたまた臓器を摘出し移植を受け、といふ事を無限に繰り返す以外、仮に《吾x》で《吾》の再生が止まってゐるとすれば、割を食ふのはその《吾x》で、《吾x》は、それ以外の《吾》の犠牲になるのを必然として此の世に産み出されたことになり、しかし、此処に大いなる疑問が《存在》するのだが、《吾》と、《吾a》、《吾b》……、《吾x》……、《吾∞》の何処が違ふといふのかね?
と、ブレイク好きの数学専攻の乙君が面白い問ひを投げかけたのであった。
――つまり、有限である事は何処かが必ず割を食ふといふ事か――成程。それが此の世の有様だな。しかし、其処に無限といふ概念が持ち込まれると、玉突き衝突の如く蜿蜒と同じ事が繰り返されるだけの、ちぇっ、約めて言へば、永劫に《吾》が再生する時代が到来するかもしれぬ事すら予想される此の世の様相は、しかし、《吾》の万能細胞から《吾a》が再生された場合、その《吾a》は《吾》かね?
と、数学専攻の乙君が続けたのであった。
作品名:審問官第二章「杳体」 作家名:積 緋露雪