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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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嗤ふ吾

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 しかし、私は夢の中で見てゐるその《闇の夢》がそもそも《闇の夢》である事から、それを或る種の幻燈と看做してゐるはずで、《闇の夢》が自在に変容するその《闇の夢》が映す《もの》に、私は嬉嬉として喜びの声も、私が《吾》を嗤ふ中で確かに上げてゐる筈なのであった。尤も私は、《闇の夢》が映し出す《もの》全てに《吾》との関係性を見出して、それ故に嬉嬉として喜んでゐるのであったが、しかし、例へば私が夢で見るその《闇の夢》が《吾》とは全く無関係な《もの》、つまり、今のところ此の世にその《存在》が知られてゐない、例へば先に言った様に《杳数》をObscurity numberと英訳してその頭文字を取って《杳数》をoとすると、その《杳数》の如き未だ発見されぬ未知なる《もの》が《存在》する事で初めて《吾》と《闇の夢》の関係が曲芸の如く導き出されるとしたならば、困った事に、私にとって《闇の夢》は《吾》を侮蔑するのに最も相応しい代物だと言へ、《吾》と《闇の夢》が例へば《杳数》の《存在》を暗示するのであれば、私といふ《存在》は、やはり、私の手に負へぬ無と無限との関係と深い関係にある何かであった事は間違ひの無い事であった。
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
 それは、つまり、《闇》=《吾》といふ至極単純な等式で表はされるに違ひない筈なのに、《闇》=《吾》と白紙の上にさう書いた刹那、その《闇》=《吾》といふ等式は既に嘘っぽくなり、更にそれをまぢまぢと眺めてゐると、
――そんな馬鹿な! 
 と、《闇》=《吾》は完全に否定される事になるのが落ちなのである。
さうすると、《杳数》はそれ自体「先験的」に時間と深く結びついた何かであるかも知れず、また、時間を或る連続体の如く扱ふ事自体に誤謬があり、さうすると、そもそも時間とは、渦動運動だと看做す場合、その渦動する時間はほんの一時、連続体として此の世にカルマン渦の如く《存在》するが、しかし、例へば、時間を数直線の如く扱ふ、つまり、時間が微分積分可能な《もの》として、換言すれば、時間が移ろふ《もの》としてのみ、その性質を無理矢理特化させてしまふと、その時点で時間は「先験的」に非連続的な何かへと相転移を遂げた、詰まる所、微分積分が相当の曲芸技無しには全く不可能な何かへとその様態を変幻自在に変へる化け物として、または、《存在》に襲ひ掛かって来る時間は、その《物の化》の如き本質を剥き出しにするに違ひ無いと思へるのであった。
 ところで、私が時折見るその《闇の夢》とは、潜在的に、私が忌み嫌ふ《無意識》なる《もの》と何らかの関係があると看做せなくもないのだが、《闇の夢》と《無意識》とを結び付けた処で、それはLibido(リビドー)とか死への衝動へと集約されちまふだけのそんな分析可能とも言へる夢の中で、《闇》と只管対峙する《吾》のそのそこはかとなく感じてゐるに違ひない恐怖心に思ひを致せば、《闇の夢》を精神分析や心理学の文脈で語った処で、この私が納得する筈もなく、
――だから、それで?
 と、精神分析医か心理学者かに詰問するのが落ちなのである。
 仮初にも、私が、《闇の夢》に対して或る恐怖心を抱いてゐるが故に、
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
 と、私は、《闇の夢》を前にして己を侮蔑せずには一時もゐられぬ、切羽詰まった状態にある事は今更言ふまでもなく、その根底の処では、私は、
――《闇》も何かへと変容せずにはをれぬ。
 といふ先入見があるのは確かで、また、その先入見がないとすれば、《存在》としては失格の烙印を押された何かに違ひないのである。つまり、《存在》はそれが何であれ己が《存在》する事を、而も、死すべき《もの》として此の世に《存在》する事を余儀なくさせられた《もの》であれば、《闇》が何かへと必ず変容するといふ事を「先験的」に賦与された偏見に満ちた《存在》としてしか、《存在》は此の世に《存在》する事は不可能なのである。
 例へば人間を例にすれば、母親の子宮内といふ《闇》では、子宮に通じた膣より挿入された男性の生殖器から放たれた精子と卵子が受精する事で、その《闇》の子宮内には既に未来に《存在》するであらう《存在》の萌芽が《存在》する事から、此の世に《存在》する人間は誰もが《闇》を目の当たりすれば、その《闇》には何かが生み出され、そして、それが隠されてゐるか、その《闇》自体が何《もの》かへと変容する契機を含んだ何かなのである。
 さて、そこで時空間を渦のFractalと仮定すれば、カルマン渦の発生の仕方より渦とはそもそも非連続的に、つまり、一、二、三……と数へられる何かでありながらも渦を取り巻く外界とは連続的に繋がる奇妙な特性を持つ《もの》で、また、一つの渦が、それよりも小さな小さな小さな渦が蝟集して出来上がった《もの》であるとすれば、此の時空間の究極の処では非連続的な、つまり、飛び飛びの時空間が表象される筈で、その飛び飛びにしか《存在》しない時空間はといふと、《闇》の大海に浮かぶ小島と看做せなくもないのである。
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
 と、《闇の夢》を見る私のその如何にも高慢ちきな《存在》の仕方は、実の処、私が《闇》への途轍もない恐怖の裏返しでしかないかもしれぬのである。さうでなければ、私が《闇の夢》に対して、
――《吾》だと、ぶはっはっはっ。
 などと嗤へる筈がないのだ。其処には《闇》に《吾》といふ箍(たが)を嵌める事で、辛うじて《闇の夢》に対峙出来る、情けない《吾》が私の瞼裡の薄っぺ
らな《闇》にか、頭蓋内の《闇》たる五蘊場にかやっとの事で何とか棲息してゐるに過ぎぬ哀しい《吾》の実像があるに違ひないのであった。
 そして、《闇の夢》の《闇》とは分離してゐる《吾》の《存在》を無理矢理にでもでっち上げて信じ込まなければ、私は、眠ったまま永眠する可能性がある以上、《闇》に隠されてゐるに違ひない《死》からその私が《存在》する限り遁走し続ける外なく、《闇》が私を映す影鏡といふ《存在》の仕方をぴたりと已めた刹那に、私は《死》に埋没する外なく、もしかすると、時が止まった時空間を永劫に漂流するかもしれぬ可能性がある事に自分でも吃驚しながらも、私は、尚も、
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
 と、《闇の夢》を嗤ひ飛ばしてゐるに過ぎぬ哀れな《存在》に違ひないのだ。更に言へば、先にちょこっと匂はせた《杳数》を例へば、oと表記できるとすれば、そのоを含んだ数式は《死》をも精緻極まりなく表記出来る、或る種魔術的な何かなのかもしれず、さうすると、《死》も数学的な論理で語られる何かへと変容してしまふに違ひないのであった。
 さて、其処で、私が闇に対して抱いてゐた或る種の憧憬は、しかし、詰まる所、闇に対する恐怖心に根差した感情、つまり、或る種の怖い《もの》見たさといふ、《存在》に「先験的」に賦与された本能に近しい何かに違ひなく、私が《闇の夢》を前にして、
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
作品名:嗤ふ吾 作家名:積 緋露雪