嗤ふ吾
頭蓋内一つとっても其処は闇である。私の内部は《皮袋》といふ《存在》の在り方をするが故に全て闇である。そして、その闇に《特異点》が隠されてゐても何ら不思議ではなく、否、むしろ《皮袋》内部に《特異点》を隠し持ってゐると考へた方が《合理的》で至極《自然》な事なのである。さうして、更に更に更に更に《吾》が《吾》なる《もの》を突き詰めて行くと、内部は必然的に超えてはならぬ臨界をあっさりと超えてしまふものであるが、その臨界を超えると《外部》と相通じてしまふ底無しの穴凹を《吾》は見出し、《内界》=《外界》といふ摩訶不思議な境地に至る筈である。そして、それが娑婆の道理に違ひないのである。仮にさうでないとしたならば、私が外界たる世界を表象する事は矛盾以外の何ものでもなく、また、夢を見る事で其処に外界たる世界を表象する不思議は全く説明できないのである。
そもそも《吾》を嗤ふ《吾》は、さうとは知らずにそれは無意識の事だとは思ひたいのであるが、結局のところ、《吾》に対しての根深き侮蔑がその根底には厳然と《存在》してゐるのは確かなやうである。つまり、《吾》は倦む事を知らずに只管《吾》を嗤ひ侮蔑するやうに生まれながらに創られてしまった《存在》に過ぎぬのかもしれぬのである。更に言へば、多分に《吾》たる《もの》は絶えず《吾》を侮蔑してゐないと不安な《存在》に違ひないのである。では何故《吾》は絶えず《吾》を侮蔑してゐなければ不安な《存在》として此の世に在るのであらうか。多分、それは《主体》に対して慈悲深き神にも、将(はた)又(また)、邪悪な邪鬼にも変幻するこの宇宙若しくは世界若しくは《自然》と呼ばれるその変幻自在なる百面相を相手に《存在》する事を余儀なくされてゐる故にであらうと思はれる。しかし、頭蓋内の闇は宇宙全体をも更には無限をも容れる器と化す事も可能な《五蘊場》なのである。するとこんな問ひが自身の胸奥で発せられるのである。
――宇宙における想像だに出来ぬ諸現象は果たして《吾》の頭蓋内の闇たる《五蘊場》――私は頭蓋内の脳といふ構造をした頭蓋内の闇を《五蘊場》と名付けてゐる――に浮かぶ形象を遥かに超えた《もの》なのか? つまり、この宇宙は本当に《吾》の頭蓋内の闇たる《五蘊場》に明滅する形象若しくは表象を超え出る事が可能なのであらうか?
すると、
――へっ、宇宙の諸現象と《皮袋》たる《一》者として《存在》する《吾》の頭蓋内の闇たる《五蘊場》に明滅する《もの》を比べる事自体無意味だぜ。
といふ自嘲が私の胸奥で発せられるのであるが、しかし、どちらも《吾》を超えるべく足掻くやうに創られてしまった事は紛れもない事実であって、更に言へば、遁れやうもないその事実は、此の世に《存在》するあらゆる《もの》たる《主体》に刃の切っ先が首に突き付けられてゐるやうに突き付けられてゐるのは間違ひないのである。そして、それは私の場合は《闇の夢》として象徴的に表はれてゐるのかもしれないのである。
そもそも「闇」を夢で見て、それを《吾》と名指して嗤ってゐる《吾》とは一体全体何なのであらうか。
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
此の時、《吾》は《吾》をすっかり忘失してしまってゐるのかもしれない。否、《吾》は、あり得べき《吾》と余りに違ふ《闇の吾》を見出してしまったが故に――一方で其処には多分に《吾》が予期してゐた筈の《闇の吾》がゐるのであるが――己の内から湧いて来て仕様がない寂漠とした感情の尽きた処では最早嗤ふしかないどん詰まりの《吾》を見出してしまったが故に、《吾》は《闇の吾》を嗤ってゐる筈である。
さて、其処でだが、《闇の吾》以上に的確に《吾》といふ《もの》を表象する《もの》が他にあるのであらうか。
――分け入っても 分け入っても 深い闇。
種田山頭火の有名な「分け入っても 分け入っても 青い山」といふ一句を捩(もぢ)るまでもなく、《吾》とは何処まで行っても深い闇であるに違ひない。その《吾》の当然の姿である《闇の吾》が《吾》として《吾》の前に現はれたのである。当然ながら《吾》は腹を抱へて嗤った筈である。否、最早どん詰まりの《吾》は其処では嗤ふしかったのである。
尤も其処には《吾》に絶望してゐる《吾》といふ《存在》を見出す事も可能であるが、既に夢で《闇の吾》を夢見てしまふ《吾》は、《吾》にたいして何《もの》でもないと断念してゐる一方で、また、何《もの》でもあり得るといふ自在なる《吾》を、《吾》は、《闇の吾》を《吾》と名指す事で保留して置きたい欲望を其処で剥き出しにしてゐるのである。闇程《吾》を明瞭に映す鏡はないのである。つまり、私が《闇の夢》を見ながら
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
と嗤ってゐるのは、何《もの》にも変化出来る《吾》を其処に見出して悦に入ってゐるのかもしれぬ、いやらしい《吾》を嘲笑してゐるに違ひないのである。そもそも《吾》とは何処まで行っても《吾》であるいやらしい《存在》なのである。
――しかし、《吾》は《吾》以外の何《もの》になり得るといふのか?
といふ反論じみた嘲笑が再び私の胸奥で発せられるのであるが、《吾》の事を自発的にそれは《吾》であると嘯くしかない《吾》は、尤も一度も自発的に《吾》=《吾》を受け入れた事はなく、何時も受動的に《吾》なる《もの》を《吾》として受け入れるのである。それは諸行無常の世界=内に《存在》する《もの》の当然の有様で、世界=内に《存在》する以上、つまり、絶えず《吾》を裏切り続ける形で《吾》の現前に現はれる《現実》を前にして、《吾》はあり得た筈の《吾》を絶えず断念しながら《吾》を尚も保持しつつ、此の《吾》を容赦なく裏切り続けて已まない諸行無常の世界の中で世界に順応する外ないのである。そして、その《現実》での憤懣が《闇の吾》となって私の夢に現はれるに違ひないのである。
そもそも《吾》とは《吾》に侮蔑されるやうに定められし《存在》なのであらうか? 例へば自己超克と言へば聞こえはいいが、詰まる所、その自己超克は絶えざる自己否定が暗黙の前提として含意されてゐるのであるが、《吾》として此の世に《存在》した《もの》が仮令それが何であれ此の世に《存在》しちまった以上、絶えざる自己否定は《理想の吾》へと近づくべく、つまり、《理想の吾》に漸近的にしか近づく術がない《吾》は、《理想の吾》を追ひ求めずにはゐられぬどうしやうもない欲求が、遂には《吾》の内奥で蠢く底無しの欲望と結び付いて、自己超克といふ名の下に、結局は《理想の吾》が厳然と君臨する故に《吾》が《吾》を滅ぼさずにはゐられぬまでに《吾》は《吾》を追ひ詰めずにはゐられぬ《もの》なのである。さうして自己超克を見事に成し遂げた《もの》のみ生き延びられるこの残酷極まりない自己超克といふ宿命を負ってゐる《吾》は、《吾》をこのやうにしか此の世に《存在》させない摂理を呪ふ事に成るのである。
――自同律の不快!
《吾》の存続する術を手探りし己の内奥をまさぐってゐた《吾》をかう言挙げした先達に埴谷雄高がゐるが、彼もまた、此の宇宙を悪意に満ちた何かしらの《もの》としてこの宇宙の摂理を呪ってゐるのである。
――ぷふぃ。