嗤ふ吾
かう呟く私が夢見時に必ず存在するのである。これは夢を見るものにとっては興醒め以外の何ものでもなく、現実では因果律に縛られて一次元の紐の如く束縛され捩じり巻かれてゐた時間がその紐の捩じりを解かれ、あらゆる事象が同位相に置かれたかのやうに同時多発的に出来事が発生する、或る種時間が一次元から解放された奇妙奇天烈な世界が展開する夢において、所謂《対自》の《吾》が私の頭蓋内に存在する事は、最早夢が夢である事を自ら断念する事を意味し、其処では深深と呼吸をしながら深深と夢に耽溺する深い眠りの中で無意識なる《吾》が出現する筈の夢世界は、夢ならではの変幻自在さを喪失してをり、その当然の帰結として、私の眠りは総じて浅いのが常であった。つまり、私の夢は因果律からちっとも解放されずに、それは多分に覚醒時の表象作用に似たものに違ひないのである。
さて、其処で《闇の夢》である。私は《闇の夢》を見てゐる時、稀ではあるが深い深い眠りに陥る時がある。それはこんな風なのである。何時もの様に私は夢を見てゐる私を朧に認識しながら、私は一息深深と息を吸い込むと徐に闇の中へと投身するのである。それ以降は《対自》の《吾》は抹消され、私は意識を失ったかの如く《闇の夢》の中に埋没するのであった。最早さうなると何かを表象してゐる夢ならではの正に夢を見てゐるかどうかは不明瞭となり、《闇の夢》の中では無意識なる《吾》が夢世界に巻き込まれながら、因果律の束縛から解かれた、所謂《特異点》の世界の《亜種》を疑似体験してゐる筈なのである。
夢は因果律の成立しない世界が存在する、つまり、《特異点》の世界が存在する事を何となく示唆するもので、私の場合それは《闇の夢》なのであった。例へば、《存在》は絶えず変容する事を世界に強要され、世界もまた変容する事を《物自体》に強要されてゐると仮定すると、《存在》は夢を見るように《物自体》に仕組まれてゐると看做せなくもないのである。つまり、《存在》する《もの》全ては夢を見、換言すれば《存在》はその内部に因果律が成立しない《特異点》を隠し持ってゐると仮定できなくもない、更に言へば、《存在》は《特異点》を必ず持ってゐると看做す事が自然な事に思へなくもないのである。
ところが、私が《闇の夢》を見るのは誠に誠に稀な事なのであるが、一方で、その稀な《闇の夢》を見ながら夢で私が闇を表象してゐる事を睡眠中も朧ながら自己認識してゐる私は、秘かに心中では、
――ぬぬ! 《闇の夢》だ!
と、快哉の声を上げてゐるのもまた一つの厳然たる事実なのであった。これは大いなる自己矛盾を自ら進んで抱へ込む事に違ひなく、これは私自身本音のところでは困った事と思ひながらも、その大いなる自己矛盾に秘かにではあるが快哉の声を上げる私は、その大いなる自己矛盾を抱へてゐる事に夢見の真っ只中では全く気付ず、ちらりとも秘かに快哉の声を上げてゐる自身が大いなる自己矛盾の真っ只中にある事を何ら不思議に思はないのであった。ところで、その大いなる自己矛盾とは何かと言へばその答へは簡単明瞭である。それは無限を誘ふであらう闇に対して、私はその闇を《吾》と名指して無限へと通じてゐるに違ひない闇を、恰も《吾》といふ有限なる《もの》として無意識に扱ってゐるのである。ところがである。此処でf(x)=一/xはx=0のとき発散すると定義される《特異点》を持ち出すと、有限なる《一》が恰も無限大なる《∞》を抱へ込む事が可能な、或る種の倒錯した無限と言へば良いのか、その無限をどうしても誘ふ《発散》した状態の《一》たる《吾》といふ摩訶不思議としか形容の仕様がないそんな《吾》が、此の世に《存在》可能である事を、私が《闇の夢》を見る事は示唆してもゐるのである。つまり、《一》なる《吾》が《特異点》をその内部に隠し持てば、私が無限を誘ふ闇に対して《一》なる《吾》と名指ししても《発散》可能な《吾》ならば、換言すれば《∞》を抱へ込む事すら可能な《吾》ならば、或る意味無限を誘ふ闇を有限なる《吾》と名指す事は至極《自然》な成り行きなのである。
多分、無意識裡にはその事を確実に感じ取ってゐたに違ひない私は、その日、《闇の夢》を見ながら、
――《吾》だと、わっはっはっはっ。
と嗤へたに違ひないのである。また、さうでなくては闇がずっと闇のままであったその夢を見て、嗤へる道理がないのである。
しかし、闇を《吾》と名指す事には、大いなる思考の飛躍が必要なのもまた事実である。其処には恰も有限なる《吾》が無限を跨ぎ課(おほ)したかの如き《インチキ》が隠されてゐるのである。また、その《インチキ》が無ければ、私は闇を《吾》と名指す事は不可能で、更に言へば、闇を見てそれを《吾》と名指す覚悟すら持てる筈がないのである。
この《インチキ》は、しかしながら、此の世が此の世である為には必須条件なのでもある。つまり、《特異点》といふ有限世界では矛盾である《もの》の《存在》無くして、此の世は一歩も立ち行かないのである。有限な世界に安住したい有限なる《存在》は、一見してそれが矛盾である《特異点》をでっち上げて、その《特異点》の《存在》を或る時は腫れ物に触るが如く《近似》若しくは《漸近》といふこれまた《インチキ》を用ゐてその《災難》を何となく回避し、また或る時は、《特異点》が此の世に《存在》しないが如く有限なる《もの》が振舞ふ事を《自由》などと名付けてみるのであるが、それでも中にはこの《自由》が《特異点》の一位相に過ぎぬ事に気付く《もの》がゐて、運悪く此の世の《インチキ》に気付いてしまったその《もの》は《絶望》といふ《死に至る病》に罹っては、
――《自由》とは、《吾》とは何だ!
と、世界に対して言挙げをし、己に対して毒づくのである。さうして《死に至る病》に罹った《もの》は更に此の世にぽっかりと大口を開けた陥穽を《特異点》と名付けて封印する事を全的に拒否するが故に、更なる《絶望》の縁へと自ら追ひ込むしかないのである。しかしながら、さうする事が唯一此の世に《存在》した《もの》の折り目正しき姿勢に外かならないのもまた確かな筈である。つまり、《存在》する《もの》は、絶えず此の世の陥穽たる《特異点》と対峙して己自身を嘲笑するのが娑婆を生きる《もの》の唯一筋が通った《存在》の姿勢に違ひないのである。
ところが、一方で、此の世に《存在》する《もの》は絶えず此の世にぽっかりと大口を開けた《特異点》を私事として《吾》の内部に抱へ込む離れ業を何ともあっけなくやり遂げてしまふ《もの》なのでもある。また、さうしなければ、《存在》は一時も《存在》たり得ぬのである。