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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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嗤ふ吾

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などと、哄笑する筈はないのであった。しかし、其処には先にも言った通り大いなる矛盾が《存在》し、仮に《闇の夢》に《吾》が映ってゐれば、それは最早《闇の夢》ではなく、《吾》といふ姿形を持った何かを夢の中で見てゐるに違ひないのであるが、実際は、《闇の夢》は闇のままであり続けてゐるのであった。《闇の夢》を夢で見て、
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
 と、《闇の夢》に対して侮蔑してゐる《吾》が、大間抜けであるが、確実に《存在》し、そして、《闇の夢》は闇であり続ける事を論理付けて語るには、夢の中で私が己の事を《吾》と意識した刹那に《闇の夢》は闇へと一変し、そして、その《闇の夢》の中に消えたであらう《もの》の《存在》を暗示するといふ事で、一応論理的に語った事になるかもしれぬが、しかし、さうして論理付けて《吾》が《闇の夢》と対峙しながら、《闇の夢》には《吾》が映ってゐて、さうして、私は夢で《闇の夢》を見ては、
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
 と、哄笑してゐると考へた処で、結局は全てが曖昧模糊とした《もの》でしかなかったのである。
 しかし、私が《吾》と看做してゐる《もの》が、果たして何なのかは、実際の処、幾ら煎じ詰めても私本人にすら解かる筈もなく、《吾》といふ《存在》の正体を知ってゐる《もの》は《神》を除けば、全宇宙史以来、《存在》した例がなく、私が《闇の夢》を見て、
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
 と、哄笑してゐる処を鑑みれば、《吾》はもしかすると闇かもしれぬといふ事は、《吾》の正体を或るひは言ひ得て妙なのかもしれなかったのである。
――それにしても、私は、何故に《闇の夢》を見る次第に至ったのであらうか。
 この問ひは煎じ詰めれば煎じ詰める程に、私が闇を此の世で一番愛してゐるといふ結論をもって納得せずにはをれぬ事に気付き、そんな時は、
――ふっ。
 と《吾》に対して侮蔑の自嘲を送っては、闇に魅惑され、耽溺する事に、最早、虜になってしまった私は、闇から遁れる術などもう残されてないと観念するしかないのであった。
 それでは、私は、何故にこれ程までに闇を偏愛してゐるのかと、その淵源を辿ってみると、その淵源はどうやら私が受胎した刹那の世界の闇への郷愁が、私をして闇を愛して已まないのではないかと思へなくもないのであった。
 それは、多分に、将来、私に為るべく母親の子宮内で受精した受精卵が、受精の刹那に不意に垣間見てしまふ闇と言へなくもなく、また、私の闇への偏愛は、母親の胎内で発生、若しくは出現してしまった《存在》の根本を問ふに相応しい闇で、私が夢で《闇の夢》をしばしば見るのは、絶えず私が原点回帰を行ってゐて、其処で炙り出される《吾》の無様さが、私をして、
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
 と、《闇の夢》、否、《吾》を見て嘲笑せずにはをれぬ私にとって、その嘲笑は此の世に《吾》が《存在》するといふ事の悲哀が多分に含まれてゐるのは間違ひない事のやうに思へなくもないのである。
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
 また、これはもしかすると、私の悲鳴なのかもしれなかったのである。何故にさう看做せるのかと言へば、自己卑下する《吾》は、《吾》の此の世での《存在》たる《もの》としての作法としては、誠に合理的だと思はずにはゐられなかったのであるが、《存在》は即ち自己卑下するべくして此の世に出現した、つまり、須らく《吾》が《吾》を嗤ふのが、《吾》の《存在》に対する一つのCatharsis(カタルシス)なのであって、自己卑下して《吾》を嗤ひ飛ばす事は、多分に《存在》する事の屈辱に塗れた《存在》の有様の穢れを落とす禊に外ならないのである。
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
 さて、私が、夢で見る《闇の夢》には一体《吾》の如何なる姿形が潜んでゐるのであらうかと、一時期はそればかりに執着してゐたが、今では、そんな阿呆らしい事に関はり合ふ暇などなく、只管、《闇の夢》に直に対峙する事で、私の心象のままに変容して已まないその《闇の夢》は、夢に開いた《パスカルの深淵》といふ陥穽なのかもしれぬと看做して、私は、不意に首をぬっと伸ばして、その《闇の夢》の中に首を突っ込む事ばかりを何時しか渇望するやうになってゐたのであるが、現在の処、夢の中で私が《闇の夢》に首を突っ込んだ記憶はなく、如何にも惜しい事なのであるが、夢の中での《吾》は、また、私の制御の利かぬ《もの》に違ひないので、夢の中の私が、私の渇望する通りに、恰も私の操り人形のやうに私の思ひ通りに動いて呉れる事は、また、ある筈もなく、然しながら、私は、《闇の夢》、つまり、それを夢世界の裂け目たる夢における《パスカルの深淵》と看做して仕舞へるならば、夢の中の《パスカルの深淵》に首をぬっと突っ込む私、それは、《闇の夢》と私における性行為に違ひなく、その時、多分、何か再び私の夢の中で発生、若しくは出現を余儀なくされる《存在》が出現するといふ、それは私にとってはえも言はれぬ悦楽を伴ってあるのではないかと秘かにその時を楽しみにして待ってゐる自分に不意に気付くと、
――何と無慈悲な事よ。
 と私は私に対して諫めるのであった。
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
 《闇の夢》に対峙せざるを得ぬ《吾》とは、さて、男根の如くに為り得るのであらうかと問ひつつも、何事も性行為に関連付ける私の思考回路の貧弱さに、自嘲しながらも、しかし、性行為こそに一つの《存在》に付された問ひに多分に対する答へであるかもしれぬと思ひながらも、今の処、私は、《闇の夢》を前にして、
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
 と嗤ふしかないのであった。
 フロイトを持ち出すまでもなく、確かに「現存在」の日常の振舞ひの淵源を辿れば、それは大概が性行為か《死》の衝動に結び付けられるのは、自明の事であったが、《闇の夢》に私の頭を突っ込みたくて仕様がない私の欲望は、多分に、《異形の吾》を《闇の夢》に頭を突っ込む疑似性行為で生み出す衝動の為せる業に違ひなく、その証左が《吾》をして懊悩せざるを得ぬ「自同律の不快」、つまり、《吾》が《吾》である事の不快が全ての端緒になってゐて、
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
 と《闇の夢》に対して哄笑する私は、結局の処、《吾》である事に我慢がならず、或るひは出来得る事であれば、その魂をファウスト博士と同様に悪魔に売り渡したいのかもしれなかったのである。
 然しながら、私が仮に私の魂を悪魔に売り渡した処で、私はファウスト博士とは違って「若さ」を欲するのではなく、只管、己の《死》を欲するに違ひないとしか思へぬのであった。それ程までに自己嫌悪する《吾》とは、さて、一体何に由来するのかと自問自答してみても、その答へは今の処さっぱり解からず仕舞ひであったが、その淵源に私が未だ胎児として母親の胎内にゐた時点まで遡れるかもしれず、また、「現存在」は、生きるのが当然との考へに思ひ為した事は、幼児期まで遡っても記憶にはなく、私は私ばかりではなく、《他》に蔑まされる《存在》であると勝手に思ひ込んでゐた事も《闇の夢》を見て、
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
作品名:嗤ふ吾 作家名:積 緋露雪