嗤ふ吾
と嗤ってゐるのかもしれず、また、私といふ《存在》は、傲岸不遜にも《神》と比べて見劣ってゐる故に《吾》を嫌悪してゐる事も事実で、私は、出来得れば、此の世界を掌中で握り潰し、私の思ふがままの新世界を捏ねくり出して創出したい欲望を抱いてゐるのもまた、確かで、つまり、ドストエフスキイの『悪霊』の登場人物、キリーロフならぬ《神人》が私が私である為の最低条件なのかもしれぬと思ふと、私は、そんな私を尚更嫌悪し唾棄するのであった。
然しながら、私が仮に《闇の夢》は闇でしかないと頭の片隅では高を括ってゐる節がなくもないのであったが、その闇をして私は《異形の吾》と敢へて看做す事で、自身の安寧を得てゐるのかもしれず、それ故に私は《闇の夢》を見て、
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
と哄笑してゐるのは間違ひなかったのである。つまり、私は私の憤懣やる方なしのその憤懣を単に《異形の吾》と名付けて、それを恰も《吾》の出来事でもあるかのやうに装ひ、その全てを《異形の吾》に負はせる事で、自己保身してゐると看做せなくもなかったのである。それ故に《異形の吾》は徹頭徹尾、その姿形を現はす事なく、私の頭蓋内の闇たる《五蘊場》に等しき闇である事が、何事においても私には好都合の事で、さうでなければ、私が《闇の夢》を見る事はなかった筈なのであった。
例へば、性と《生》と《死》が綯ひ交ぜになった《もの》が、多分、私の《闇の夢》の正体と思はぬ事もなかったが、しかし、それでは私は《闇の夢》を見て、
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
と自嘲する《吾》は、その深層の処では、性と《生》と《死》を侮蔑してゐる事になるのだが、私は、
――それもまたありなむ。
と妙に納得してゐる私に対して、これまた奇妙な目を向け、尚更の事、自同律の不快のど壺に嵌るのであった。
それにしても、私が見る《闇の夢》は一体全体何の象徴、若しくは隠喩なのかと絶えず自問自答してゐる私は、それを或る時は、陰毛を、女陰を、将又、《死》を、そして私自身の頭蓋内の闇を、と、挙げれば切がない程に私は不知不識の内に《闇の夢》に対して私の表象の塵箱の如く何でも投げ入れてゐる事を自覚するのであった。
或るひは、私が見る《闇の夢》はBlack holeの単純な表象でしかなく、仮にさうだとすると、私の推察する能力は、余りにも稚拙な《もの》と言はざるを得ず、実際の処、将に私の発想は貧弱そのもので、果たせる哉、私の想像力なんぞは、所詮、その程度の《もの》でしかないのも、また、真実で、然しながら、私は常常Black holeとはその名によって「漆黒の闇」を連想させるが、本当は、Black holeは光に満ち満ちた此の世の裂け目、否、画家のルドンが描く巨大な巨大な巨大な目玉の如き此の宇宙の目玉と看做してゐて、私は、其処に万華鏡の如き美麗なる鏡面界を見てゐるのであった。つまり、私にとってBlack holeと光とは同義語で、《闇の夢》がBlack holeを表象してゐる筈はないと思ひながらも、私は、もしかすると夢見中には、その覚醒時の心象を夢知らず、Black holeとの呼び名から単純な発想で、「漆黒の闇」と看做してゐるのかもしれず、また、さう看做した方が、どう考へても自然だと、私には思へて仕方ないのも確かなのであった。
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
成程、《闇の夢》は私が夢で頭蓋内の脳といふ構造をした《五蘊場》に出現する数多の表象群の全てをその《闇の夢》に投げ棄ててゐるのも、また、確かで、仮にさうでなければ、夢に闇が出現する筈もなく、更に言へば、私の世界認識が、古代人のそれに限りなく近く、それは、此の世の涯には断崖絶壁があり、それを以て此の世が尽きるといふ世界観が私の意識下にはくっきりと《存在》し、私が夢見中に《闇の夢》として見てゐるのは、多分に、此の世の涯のその断崖絶壁に対峙してゐるとも考へられなくもないのであった。仮にさうであるならば、成程、私が夢見中に見る《闇の夢》は此の世の森羅万象を呑み込んだ闇と看做すのが自然の道理に違ひなく、私の世界観に《存在》してゐる世界の涯に此の世のあらゆる《もの》を投げ棄てて、さうする事で、私は、私の世界観、若しくは世界認識を日日更新し続けてゐるとも思へなくもなかったのであった。
さうなると、私は、《闇の夢》を前に、
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
と嗤ふのは、もしかすると此の世の森羅万象を、艱難辛苦を全て堪へ忍んだヨブとは全く違って、己が神に為ったかの如くに錯覚して、さうして相手を侮蔑する事でのみ味はへる何とも言へない優越感といふ愉悦を味はひ、己が此の世の主人である事をたんまりと堪能したいのかもしれなかったのである。それ故に、私は、《闇の夢》に対して、
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
と、或る種の侮蔑の感情が籠った嘲笑を、何の衒ひもなく放てるのかもしれなかったのである。
――私は、《闇の夢》を見て、さて、何を侮蔑してゐるのか?
と、しばしば私は自問自答するのであったが、それは、考へれば考へる程、私は、此の世の禁忌を破って、神に為ったと悦に入ってゐる自身を見出さずにはをれず、また、さう看做す事が自然な道理に思へて仕方ないのも、また、確かなのであった。それは何とも矛盾した私の、その世界に対する屈折した感情の発露として、《闇の夢》が、現はれてゐると言へなくもないのであった。
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
この虚しく私の頭蓋内に響く哄笑は、一方で、無知で空っぽの私自身の《存在》の有様に対する侮蔑であり、一方で、私は単純故に此の世の主人と化して世界を握り潰し、さうして世界を創り直す創造神の如く、《闇の夢》をむんずと掴み世界を捻り出すか、若しくは、性交時の如く、女陰にも表象可能なその《闇の夢》に、男性器を突っ込む事を夢想する思春期の性に目覚めたばかりの若者の如く、女性を性の対象として見始めた《もの》における女陰のQualia(クオリア)、つまり、感覚質の如くに、私は《闇の夢》に頭を突っ込み呑み込まれる夢想を秘かに望んでゐると看做せなくもなく、《闇の夢》はそれ故に、私といふ《もの》の発生、若しくは起動装置として、私にとっては最早必要不可欠な《もの》に為ってゐるのは、間違ひない事であった。
尤も私は《闇の夢》を私にとっては《生》に必要不可欠な《もの》として、夢で出合ふのを秘かな楽しみにしてゐたのかもしれず、それは今もって処判然としないが、然しながら敢へて言へば、闇は光さへも呑み込むその貪婪さが、堪らなく私には心地よかったのかもしれなかった。否、もしかすると、闇を私の《存在》の天敵であると看做して、何とかして《闇の夢》を木端微塵にしたかったのかもしれなかったのである。
――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。
或るひは、さう哄笑する事で、私は、《闇の夢》から逃げ出したかったのかもしれず、さうならば、私は、私にとって《闇の夢》とはそれ前にすると途轍もない屈辱感に苛まれる《もの》でしかなく、そして、それに付随する含羞によって尚更私は《闇の夢》から逃げ出したくなる事大なのであった。