時間の三すくみ
「お互いにけん制しあって、理屈を補っているのかも知れない」
と考えた時、
「三つの関係性」
というものが微妙な関係にあるということを感じさせるのだった。
それが、
「三つ巴」
というものと、
「三すくみ」
というものであった。
「三つ巴」
というのは、
「三つの力関係が、すべて、その三角形が示す通り、均衡がとれている」
というものである。
そして、
「三すくみ」
というのは、
「三角形の問題ではなく、それぞれ、個別に相対するものが、それぞれに、相対関係を持っていて、ABCの関係でいけば、AはBには強いが、?には弱い。Bは、Aには弱いが、?には強い。だから、?はBには弱いが、Aには強いというそんな襷が掛かったような関係のことをいう」
というものである。
つまり、
「三すくみ」
というのは、
「抑止力を持った関係」
といえるのだ。
つまりは、
「この関係を崩そうとして、自分が動いてしまうと、自分は絶対に生き残ることはできない」
ということになるのだ。
「自分が生き残るためには、自分が優勢に立っている相手に動いてもらうのが一番である」
しかし、自分に強い相手が動いた場合でも、万が一、それをもう一方が待っているとすれば、こちらにも勝機がある。
つまり、
「まずは、自分以外のところで、準決勝を行わせることが大切だ」
ということになるのだ。
タイムトラベルというものの関係性として、
「この三すくみの関係」
というものになっているのではないか?
と考えるのであった。
その三すくみを感じさせる、
「演出のようなもの」
があったとすれば、それが、
「この間の、マンホールの一見ではないか?」
と思えたのだ。
そして、あの時、実は目の前にいたのは、
「友達ではないか?」
と感じたのだったが、実はそうではなく、
「自分のドッペルゲンガーというものではないか?」
と感じた。
別に確証があったわけでもなく、自信もない。
ただ、
「友達だと思ったのは、間違いだったのではないか?」
と感じたのだ。
そして、自分のドッペルゲンガーというものを、
「自分の中の、三すくみ」
なのではないかと勝手に思い込んでいたが、
「三すくみだ」
ということにして、
「じゃあ、頂点にあるのは何なのか?」
ということになる、
「ヘビ、カエル、ナメクジ」
というものを三すくみとしているが、言われる順番は、ほとんどの場合、誰もが例外を見ることなく、
「ヘビ、カエル、ナメクジ」
というだろう。
「カエル、ナメクジ、ヘビ」
でもいいだろうし、
「ヘビ、ナメクジ、カエル」
であっても、その関係性が揺らぐということはない。
意識として勝手に、
「ヘビが一番強いのだ」
と勝手に思い込んでいるということである。
それを考えると、
「もし、ドッペルゲンガーが現れて、自分のタイムスリップだったとすれば、直視できなかったのも理屈としては分かるのだ」
ということは、
「その時、意識的なのか、無意識なのか、そこにいるのが、自分のドッペルゲンガーではないか?」
と思っていたということであろうか。
「見てしまうと近い将来、死んでしまう」
という理屈の、ドッペルゲンガーである。
そして、実はその時、もう一つを考えていたのかも知れない。
それが、
「タイムスリップをした自分」
というものである。
だから、
「死ぬとしても、それはビックバンであり、自分だけではなく、世界が滅んでしまう」
という発想である。
それを思うと、
「滅んでしまう自分というものが、世界であるとすれば、一度だけではなく、何度も滅んでいるのではないか?」
という発想も出てくるのだ。
そうなると、
「この世界は、一つではない」
ということになり、それが、
「再生によってよみがえるのか?」
それとも、
「元々、世界というものは、複数あり、それが、見えない異次元として存在している」
というのが、
「パラレルワールド」
という発想である。
ということである。
だから、
「パラレルワールドというものを考えた時、それが、ドッペルゲンガーへの証明だ」
と考えると、
「パラレルワールドと、ドッペルゲンガーの関係は、まるで、タマゴが先か、ニワトリが先か?」
という発想と。
「ほぼ同じなのではないか?」
と考えられるのであった。
それを考えると、
SF的な発想というものは、
「限りのないものなのだろうな」
と感じるのであった。
大団円
マンホールの穴は。それから、しばらく開いていた。
しかし、その時の発想というものは、二度と自分に降りかかることはなかった。
それから、自分のまわりで、
「ドッペルゲンガーを意識する」
ということも、そして、
「三すくみを感じさせる」
ということもなかった。
しかし、何か、違和感があったのだ。
「どこかに何かを忘れてきた気がする」
という、何か気持ちの悪いということを感じさせる発想であった。
そう感じると、
「同じ日を何度も繰り返している」
という発想だけが残っていた。
それは、
「リピート」
というものであり、
「なぜ、何度も繰り返しているのか分からない」
と感じながらも、その先にあるのは、
「リピートには限りがある」
ということであった。
「もし、その限界を超えてしまうとどうなるのだろう?」
と感じた。
「死んでしまう」
ということになるのだろうか?
普通に考えれば、
「人間で一番の恐怖」
というもは、
「死」
というものではないだろうか?
そんなことを考えていたが、実際に、そうではない。
「死ぬことができずに、永遠にこの世をさまようことではないか?」
ということに気づいたのだ。
だから、もし、これが、
「リピートだ」
ということであるのなら、
「限界が来て、そのまま死んでしまう」
ということか、
「この世から消滅してしまう」
という方がいいかも知れない。
いつまでも、
「どうして同じ日を繰り返すのか?」
というその意義も理屈も分からないまま、生き続けるのは、
「これ以上のむごいことはない」
と考えさせられる。
「意義が分からない」
というのは、まだしょうがないとして、
「理屈が分からない」
ということは、勘弁してほしいと考えるのであった。
ただ、そんなことを考えていると、さらに疑問が頭をもたげるのであった。
それは何なのかというと、
「本当に、俺は自分なのだろうか?」
と考えた。
「俺の方がドッペルゲンガーなのではないか?」
と考えたのだ。
しかし、この考えは自分に安心感を与える。
というのは、
「俺がドッペルゲンガーであれば、近い将来死ぬということはないだろう」
ということであり、
「本当の俺は死んでしまっていて、今の俺は、意識ごと、上書きされたのではないか?」
という発想であった。
そう、これこそが、
「タイムリープの正体ではないか?」
ということであった。
( 完 )
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