死刑囚の視点(②佐野剛)
「馬鹿にしろよ。な?怒らないからよ」
「馬鹿になど、しませんよ」
「クリスチャンだからか?」
「違う」
「なら、なぜ」
「私も同じだからです」
俺はもう手の中で冷めてしまったお茶から、視線を上げる。金井は、まだ真剣な表情を崩さない。
「私は高校生になるまで母とお風呂に入っていました」
俺は声が出なかった。金井の後ろで、網谷はやはり微動だにしなかったが、暴れる俺を抑えるため余計に集められた屈強な刑務官たちの何人かが、動揺したのか、肩や頭が少し揺れた。
「これ、本当ですからね?」
金井はソーセージのように肉が詰まった指先で米神を掻きながら、ようやく照れくさそうな笑みを浮かべた。
「高校生の修学旅行の時に、クラスメイトと『いつまで母親とお風呂に入ってた?』っていう話題になって。そこで私、初めて気づいたんですよ。同い年の男の子は、高校生にもなって母親とはお風呂に入らないんだって」
「おっせえよ」
俺が突っ込むと、金井はまた笑って、頬にえくぼが出来た。俺は、この男のこんな笑みを初めて見た。
「でも、みんな同じでしょう?」金井が言った。
「いや、一緒にすんな」俺はすかさず言い返した。
俺は中学生までだった。そのことを俺は金井に言わなかった。俺は中二の時、野球部の合宿中にそのことがチームメイトにバレて虐めの標的にされ、野球部を辞めた。
分かっている。金井は「みんな高校生まで母親とお風呂に入ってたでしょう?」と言ったんじゃない。「人類はみんなマザコンでしょう?」と言いたかったのだ。俺は法廷で、裁判長が度々制止するほど執拗に怒鳴ってきた被害者の母親の姿を見て「クズ女の母親も、やっぱりクズ女だな!」と思った。実際に、俺は裁判中にそのようなことを言い返して、その様子がニュースになって俺は世間からえらくバッシングを浴びたらしい。
人類みなマザコン。俺が言うと、金井は「そうでしょう?」と言って得意げに笑った。「うっせえよ」俺は言い返したが、ちょっと噴き出してしまった。自分で言ったくせに、人類みなマザコン、という言葉の響きが、妙に面白かったのだ。網谷は、やはり笑わなかった。でも、この人造人間みたいに表情が無くて、人間味のない男にも、母親はいるのだろう。周りで拍子抜けしたような顔をしている若手の刑務官たちにも。俺が手にかけた5人の女たちにも。
「教会に帰ったら、明日にでも信者の皆さんにアンケートを取ってみましょうか」
「何の?」俺は残ったどら焼きを口の中でもしゃもしゃとやりながら聞き返す。
「『皆さん、お母さんと何歳までお風呂に入ってましたか?』って」
その時、網谷の上にある時計に目をやって、はっとした。終了時間を過ぎている。
「みんな幾つまで入ってたんだろうな~」
ずっと険悪だった俺と打ち解けたつもりでウキウキしている金井のことが急にムカついてきて、俺は再び口を閉ざした。そう言えばこいつ、今日まで一度も、キリスト教の教義ついて俺に教えてくれたことがない。ていうか、今日は机に聖書すら置いていないし。照れくさそうな笑みで頭を掻く金井に向かって、俺は心の中で毒づいた。
やっぱりお前、聖職者として失格だよ。
教誨師、としても。
俺の様子を見て、おそらく潮時を察したのだろう、網谷はとっくに分かっていたくせに、一応、腕時計に目を落とす素振りをしてから俺に「時間だ」と告げる。
牧野を通して行っていた再審請求が、裁判所に「棄却」された。
事件前に俺が自分のスマホやパソコンに犯行計画のようなメモを残していたことや、凶器のナイフや女の首を絞める縄をあらかじめ用意していたことが「責任能力アリ」と判断されたようだ。俺が発症した統合失調症による「心神喪失」も「心神耗弱」も認められなかった。
いよいよ追い詰められた。俺は、覚悟を決めなければならないのかもしれない。
拘置所の運動場は、天井が網のようになっていて、やはり独房の窓と同じように空だけが見えるようになっている。
「なあ、網谷さん」
俺は格子扉の向こうに立っている網谷に向かって問う。今日の空は、鈍色の雲が広がっているだけで、自由に飛び回る鳥の姿は無かった。
「俺は穏やかに逝けるだろうか?」
網谷はこたえなかった。
「多分、ムリだろうな~」
俺は自嘲するように笑って見せた。俺は自分という人間の性質をよく、知っている。図体がでかくて、腕っぷしはあるが度胸がなくて、臆病。プレッシャーに弱いから、野球ではピッチャーが投げるボールをぽろぽろとこぼして、監督やコーチに叱られてさらに委縮するから、俺はやはり次の試合でもボールをぽろぽろとこぼし続けた。そんな俺を、母ちゃんは決して叱らなかった。「気にしなくていい」「剛、お前のペースで良いんだよ」優しく微笑んで母ちゃんはそう言った。俺が中二で野球部を辞めた時も。高校を中退し、就いた職場もすぐに辞め、職を転々としていた時も。
分かっていたんだ。俺は、自分という人間の性質を。母ちゃんが末期がんと知り、もう無理なのに主治医の白衣に掴みかかって暴れまわり、警備員につまみ出されて母ちゃんの最期に立ち会えなかった時も。母ちゃんが俺を叱ることは決して無かった。でも、きっと願っていた筈だ。
強く生きなさい、と。ハッとするほどに蒼い空の彼方に浮かぶ、白い白い雲のような瞳で俺を見つめながら。母ちゃんは、今も願っている筈だ。ツヨシ。強く逝きなさい、と。
「聞こえる……」
俺は呟いた。格子扉の向こうで、網谷がわずかに動く音が聞こえた。
「母ちゃんの、声が」
頭上には相変わらず鈍色の雲だけが広がっていて、網谷は何も言わなかった。統合失調症の症状が悪化して、アリもしない幻聴が聞こえているんじゃないか?他人(ひと)はそう俺をあざ笑うだろう。でも、幻聴でもいい。俺の耳は確かに、聞いたんだ!俺を励ます声を。俺の背中をさすり、元気づけようとする母ちゃんの声を。
網谷に言って事件記録を取り寄せ、独房の中で見返そうとしていた時だった。他の死刑囚たちと同じように、俺もその時を迎えた。
扉が開かれるとまず4,5人の屈強な警備隊員たちが入口を塞ぐようにして立つ。そして、その間からぬっと現れた網谷が、いつもの無表情で、俺の前に膝をつくと「立てるか?」と聞く。
「ああ」
声はかすれていたが、確かに、出た。しかし、自分の意志とは反するように、俺の身体は刑の執行を拒むように震え、独房の畳から立ち上がることを拒絶していた。
「立てる」
俺ははっきりとそう言って、俺を立たせようと近づいてきた警備隊員の動きを制す。一人で、立てる。少年野球の試合前、緊張する子供たちに向かってまずコワモテの監督がゲキを飛ばす。そして、今度はキャプテンを中心に子供たちだけで円陣を作り、気合を入れる。
肩をすくめ、落とし、息を二度、三度と吸い、吐き出す。すると、全身を覆っていた緊張が少しだけ解ける。身体の中に少し溜まった空気を使って、俺は力の限り叫んだ。
「い、いくぞおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
作品名:死刑囚の視点(②佐野剛) 作家名:moshiro