死刑囚の視点(②佐野剛)
俺は生前に呼んでいた「母ちゃん」ではなく「母親」という言葉を使った。でも「ははおや」という発音は、あまり言い慣れていないのでぎこちなかった。
「そうですか」
知っているくせに。開口一番、いきなりお守りの話を切り出したのはあまりに不自然だった。おそらく俺を懐柔するために、金井は俺の過去について調べ、俺が最も心地良いと感じる部分を突いてきたのだろう。
下手くそ!未熟者め!俺の言葉にわざとらしく深く頷いている金井の汗ばんだ額を、俺は思い切り引っ叩いてやりたい気分だった。が、ここは我慢した。ここで怒ってしまったら、俺の負けになるような気がした。
沈黙が続いた。俺はお茶をちびちび飲み、口に含んだどら焼きを、なるべくゆっくりと咀嚼する。もしゃもしゃという自分の咀嚼音が、耳の奥でやたら大きく響いてウザったかった。奥の窓から見える街の景色は、時間が止まったように動かない。金井は額の汗を大ぶりのハンカチで拭い、俺が続きを話し始めるのを辛抱強く待っている。俺は微動だにしない網谷の上にかけてある時計にちらと目をやる。終了時間まで、まだ26分もある。とても間が持たなかった。
俺はシャツの丸首を下げ、中から繊維がぼろぼろになったお守りを引っ張り出す。
「少年野球の試合で負けて、その帰り道で母親に買ってもらったんだ」
その日の試合では、9回裏の守りで俺がピッチャーのボールを後逸してしまい、チームはサヨナラ負けを喫したのだった。厳しいチームだったので監督からはボロクソに言われ、半べそになった俺を慰めるために、母ちゃんが帰り道の途中にある神社で俺にお守りを買ってくれたのだ。次の試合では俺がミスをせず、チームが絶対に勝ちますように。隣で両手を合わせ、ブツブツと呟いていた母ちゃんの横顔を、俺は今でもよく覚えている。だから、お守りに刻まれた文字は「勝運」。
「死刑囚が『勝運』守りを持ってるなんてヘンだろう?」
俺はそう自嘲して見せたが、金井はぷっくりとした頬を少し引きつらせただけだった。俺はまた素早く時計に目をやり視線を戻す。あと22分。
「もう、いいだろう?」
「ええ」
金井は机の上に両手のひらを組んで置き、俺の顔を満足そうに見つめた。
「これで少し、あなたのことが分かりました」
俺はむずかゆい後頭部を掻きむしり椅子から立ち上がると、相変わらず表情一つ変えない網谷に「今日はもう、いい」と教誨終了を告げる。
「また教えてください」
「言わねえよ」
俺は刑務官に手錠をかけられ去り際に、金井に向かって唾を吐き捨てるように言った。
「次はねえんだから」
しかし、金井は、何か確信に満ちたような笑みで俺を見送っていた。
クリスチャン、失格。教誨師、失格。未熟者のくせに。独房に戻ってから、俺はやはりあのとき金井の顔面をぶん殴らなかったことを後悔した。未熟者のくせに。俺は独房の畳に胡坐をかくと一人、ぶつぶつと金井への恨み言を繰り返した。統合失調症の症状がひどくなると独り言も増える傾向にあったが、牧野との面会をきっかけに抗精神薬の処方が再開されると、俺の意識は、視界の靄がとれたようにハッキリとしていた。
一週間後。俺は、金井との面会を拒否した。
廊下の奥から大勢の足音が近づいてくると、カサカサに乾いた唇はやはり無意識に、いつもの読経を口ずさみ始める。
俺の父親は、俺が小学校に上がる前に交通事故で死んだ。
「何妙法蓮華経!何妙法蓮華経!」それは、父親の仏壇に向かって、母ちゃんが毎日手を合わせながら呟いていた言葉だった。
拘置所に収監された後、俺は仏教の教誨師たちに救いを求めた。しかし奴らは、俺に仏教の教義を一方的に押し付けたり、或いは、俺の話をぼんやりした表情で聞いているだけで、結局、あの坊主たちが俺の乾いた心を癒してくれることは無かった。
だから、今度はキリスト教に救いを求めたのだ。それなのに、あのザマだ!
「何妙法蓮華経!」
俺は母ちゃんに買ってもらったぼろぼろのお守りを額に押し抱き叫んだ。
「母ちゃん!」
俺が28歳のときに母ちゃんをガンで亡くした後、俺は生まれて初めてできた彼女に救いを求めた。でも、駄目だった。あいつは最低の、クズ女だった!母ちゃんには、遠く及ばない。
「母ちゃん!」
大勢の刑務官たちの足音が、ひどく、ゆっくりと、俺の独房の前を通り過ぎていく。
「母ちゃん!」
俺の最初で最後の彼女は、1人目に殺した女は、確かに、28歳まで母親と二人で暮らしていた俺のことを「マザコン」「育ちが悪い」と罵った。許せなかった。この世で最も大切だった、いつも俺に優しかった母ちゃんを罵るなんて。箸の使い方ひとつ、ものを食べる音ひとつくらいで、どうしてヒトの母親のことを馬鹿に出来る?
許せなかった。およそ母ちゃんには遠く及ばない醜くて、愚かな、あまりにも低俗な女に、母ちゃんを馬鹿にされたことが。
「母ちゃん!」
でも、もういい。どんなに低俗な女たちから「マザコン!」と罵られても。こうして潰れかけの虫のように惨めに床を這いつくばり、汗と涙と涎まみれになった顔を上げながら、俺は力の限り声を上げ続けるのだ。
「たすけてえ!」
声が裏返る。この全身を突き刺す痛みから、苦しみから、一刻も早く解放されたかった。死の恐怖から逃れたかった。
「助けて!」
かあちゃん!
かあちゃん!
かあちゃん!
かあちゃん!
かあちゃん!
かあちゃん!
奥の方から、大勢の足音がこちらに引き返してくる。死の苦しみから逃れることが叶わないのなら、せめて、痛みのない死を。苦しみのない死を!
「わあああああああああああああああっ……!」
叫んでいなければ壊れてしまう気がした。声が尽きてしまうと、俺は畳に突っ伏し激しく咳き込んだ。舌先から畳にのびた痰の中には、昨夜食べた生姜焼きのカスのようなものも混じっていた。遂に咳も、痰も止まってしまうと、俺は畳の上で横向きになり、独房と外の間には通路のようなスペースがあるせいで空しか見えない小窓を、耳の奥で鳴る自分の荒い息を聞きながら、ぼんやり眺めていた。
後ろにある扉がノックされる。
「佐野」
網谷の、いつもの抑揚ない声が聞こえる。
「金井先生が来ているが、どうする?」
教誨を希望した覚えはなかった。こちらが望んでもいないのに何度もやって来る教誨師は初めてだった。俺は網谷の方へ態勢を変えようとした時、はっとして、もう一度、窓の方を見る。今まで灰色の空しか見えなかったはずの窓に、ゴマのような黒い点が二つ映った。鳥だった。それは円を描くようにして窓の中に広がる空をしばらく飛びまわり、そして、二羽とも彼方の空へ消えていった。
「母親の代わりになる女を探していたんだと思う」
俺の言葉を、金井はテーブルの上に手のひらを組み合わせてじっと、耳を傾けていた。
「母ちゃんのように、俺を優しく包み込んでくれるような女を、な……」
でも、駄目だった。俺が出会ってきた女たちは、みんな低俗で、母ちゃんには遠く及ばない存在だった。俺にとって、本当に優しい女性は、母ちゃん一人だけだった。
「俺はマザコンだ。それは間違いない」
俺は自嘲するように笑い、肩をすくめて見せた。金井は笑わなかった。
作品名:死刑囚の視点(②佐野剛) 作家名:moshiro