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死刑囚の視点(②佐野剛)

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 5人目は夜道ですれ違った女で、取り調べを担当した刑事から教えてもらうまで顔も、名前も知らなかった。夜道を1人で歩いている俺を見て、すれ違いざまに「寂しい男!」と笑った気がしたので殺した。
 俺がこれまでに会ってきた女は、母親以外、みんな愛想が良くて、嘘つきで、最低な女ばかりだった。そんな奴らがこの世には平然とのさばっていて、みんな同じようなメイクをして自撮りしてSNSに投稿したら「いいね!」をもらって喜んで、「いいね」してくれた相手は友達なので所詮自己満足なのに、それで良い気になってまたメイクをして、男に愛想良くして、その気になった男を振り回して陰では女友達とほくそ笑んで、俺みたいなモテない男を「マザコン!」「ブサイク!」等と罵って楽しんで、そんなことしか楽しみが無い女というろくでもない生き物がもう憎くて、憎くて仕方が無くて。俺は、そんな女たちとこれからも隣り合って生きていかなければならないと思うと耐えられなくて。俺はもう、全世界の女をこの手にかけたいと思うようになった。殺し尽くしたいと思った。俺や母親を馬鹿にした女たち全員の顔が歪み、二度と笑えなくなるまで。殴って、殴って。刺して、刺して、刺して……。
「やはり治療が必要なようですね」
 アクリル板の向こうにある牧野のつるんとした顔が、サイレンの色で赤く染まったり、白に戻ったりを繰り返している。俺が発狂する予兆を察した網谷が呼出ボタンを押し、俺は駆け付けた刑務官たちによって拘束され身動きが取れなくなっていた。
「逆転の望みはあるだろうか?」
 牧野は黙って頷いた。俺は力を入れると余計に刑務官たちから押さえつけられるので、逆に全身の筋肉を弛緩させるようにして笑顔を作った。「時間だ」網谷が左手にはめた腕時計を見つめながらそう呟いた。

 シャワーヘッドから落ちてくる熱い雫が額から頬を伝い、俺の弛んだ全身を流れ落ちていく。3日に1度の風呂に入る時、身体の芯から「生きている!」という実感がひしひしと沸いてくる。それは、仕事終わりに銭湯を訪れ、腑抜けた顔を湯で拭いながら「はあ~」「生き返る!」などと抜かす中年オヤジの感覚よりもずっと大きくて、実感を伴ったものに違いない。
 湯船から上がると、決められた量のシャンプーとボディソープを使って体を洗っていく。俺の身長は180センチあって、ガタイも良い方だから小学生の頃に所属していた少年野球チームではキャッチャーをやっていた。だが、2日に1回、たった30分の運動時間以外は独房と面会室と教誨室を往復するだけの日々を過ごすうちに、拘置所生活で必要な「立つ」「座る」「寝そべる」といった基本動作に使う筋力以外はすべて落ちてしまった。少しずつ、だが確実に衰えていく自分の肉体に白い泡をこすり当てる時、俺は、自分が日々確実に死へと近づいているのを感じた。
 ボディソープの泡を流すと、次は頭にシャンプーをつけ洗っていく。被害者女性から『ひどい悪口を言われている』という妄想があった。本当に、そうだろうか?俺は頭皮から零れ落ちてくる泡に目をつむり、生ぬるい暗闇の中で牧野と語ったことについて考えてみた。俺がこの手にかけた女たちから投げつけられた言葉は、俺が投げつけられたと思っていた言葉は、すべて、俺の妄想だったのだろうか?もし本当にそうだとしたら、俺が起こした事件は一体、何だったのか?俺はむずかゆい頭皮に爪を突き立て、強く、激しくこすっていく。俺をあざ笑った女たちの声や表情は、俺に襲われると歪み、引き裂くように叫んだ女たちの声や表情は一体、何だったんだ?
 俺を「おい、馬ヅラ!」と蔑んで笑い、俺がカッとなり振り返ると逃げていったかつての同級生たちの姿も、すべて、俺の妄想だったというのか?頭皮がひりひりと痛み始めていたが、俺は構わずに突き立てた爪を前後左右に激しく動かし続けた。俺が同級生から虐められ、少年野球でミスをして落ち込んでいたときも俺を慰めてくれた母の言葉は?俺の記憶にあるものはすべて妄想だったのか?
 いや、違う。牧野が言うように、俺が襲った5人の女たちからかけられた言葉は、俺の妄想が作り出した産物だったのかもしれない。牧野の言葉を借りれば、俺は善悪をベンシキする能力がイチジルシクカケタ状態で犯行に及んだのだ。だから、俺は無罪だ。
 砂場で遊んでいると背中を蹴られ、俺が振り返ると逃げていった近所の子どもたちの後ろ姿は?母ちゃんからかけられた言葉は?すべてが妄想ではないとして、では、どこからが妄想で、どこまでが真実だったのか?俺は泡のついた手で頭皮を激しくこすり続ける。すべてが妄想ではないとして、俺の中でその境界は曖昧だ。母ちゃんの笑顔は?優しかったのに、最期はガンの痛みでもがきながら死んでいった母ちゃんの苦しみは?
「佐野、時間だ」
 浴室の壁に、刑務官特有のやや低くて、よく通る声が跳ね返る。俺は目にかかった泡を拭い振り返ると、網谷がバスタオルを手に立っていた。
「今日はサービスしてくれないんだな」
 俺は濡れた身体を拭きながら、今日は風呂の時間を延長してくれなかったことについて嫌味を言ったが、網谷は無視した。全身を拭き終え、籠から衣服を取り上げた時、隙間から、いつも首から下げているお守りが床に落ちた。身をかがめ拾おうとする網谷の手から俺はむしり取るようにしてお守りを取り返す。
 俺を見つめる網谷の表情に、感情の動きはあまりなかった。水面にうつったようにぼんやりとしていて、しかし、刑務官としての職務は忘れまいとするかのように、帽子の下にある眼光だけが、俺の裸をじっと見つめている。角が破けぼろぼろになったお守りには「勝」という文字が刻まれていることを、この男に見られただろうか?死の恐怖から逃れたいのに、勝運のお守りをつけているなんて「おかしい奴だ!」と笑われそうな気がしたが、そうではなかった。網谷は「3分以内に着替えを済ませるように」と俺に命じただけだった。

 金井は手土産にどら焼きを持って教誨室に現れた。どら焼きの餡には小さく砕いた栗が入っていて、つぶつぶとした食感がとても美味しかった。俺は用意されたお茶も一口「ずずっ……」と音を立ててすすってから
「よし、もう帰っていいぞ」
 邪険に手を振って見せたが、金井は苦笑しただけだった。
「アンタもしつこいねえ」
「いつもお守りを身に着けているそうですね」
 俺は湯呑から唇を離す。
「誰からもらったんですか?」
 俺は顔を上げる。金井のいつものように汗が光る額の向こうに、網谷が腕を後ろに組んで立っている。しらばっくれているがこいつ、言いやがったのか?それとも、たまに巡回で独房を訪れる処遇部長が金井に教えたのだろうか。事務方で、普段はほとんど収監者と接することが無い処遇部長は、現場でいつも俺たちを見ている刑務官たちと違ってやたらに愛想が良く「ご加減は如何ですか?」とか「何か困っていることがあったら、いつでも仰ってくださいね」とか女みたいな猫なで声で俺たち死刑囚に語り掛けてくる。その後ろでは、いつも俺とやり合っている若手と中年の刑務官が2人、顔を強張らせ直立不動で立っているのが印象的だった。
「母親だよ」