死刑囚の視点(②佐野剛)
金井は刑務官たちの手から解放されると、網谷に促されて教誨室を後にする。最後にもう一度、見送りに出た網谷の方を振り返った時、金井の表情は、腐りかけのリンゴのように赤を通り越して紫ばみ、くしゃくしゃに歪んでいた。
独房の外から微かに、こちらに近づいてくる刑務官たちの足音が聞こえる。俺の手は無意識に、シャツの下に隠したお守りをぎゅっと握りしめていた。
「無病息災、無病息災、無病息災……」
ひどく痛む胸とお守りを抱きながら、俺の口は、頭の中で唱えていた筈の言葉を自然と口ずさみ始める。無病息災。「無病息災」何妙法蓮華経。「何妙法蓮華経」南無阿弥陀仏。「南無阿弥陀仏」。
まるで脳裏に響く声はお師匠様の声で、俺はお師匠様の言葉を反芻する弟子の坊主のように同じ言葉を繰り返す。
何妙法蓮華経。「何妙法蓮華経!」何妙法蓮華経。「何妙法蓮華経!」
何妙法蓮華経。「何妙法蓮華経!」
「何妙法蓮華経!」「何妙法蓮華経!」「何妙法蓮華経!」「何妙法蓮華経!」「何妙法蓮華経!」
「なんみょう、ほうれん、げっ、きょ~うっ!」
うっ、ううっ、うっ……。他の死刑囚を引き連れた行列が、俺の独房の前を通り過ぎてからも俺は床に突っ伏し、獣の咆哮のような呻き声は止まなかった。この惨めな姿を見たら、あの金井はいやらしくほくそ笑むだろうか。あいつは聖職者などではなくて、所詮、いやらしい俗物だからな。
「はあ~っ!」足音が消え、ようやく執行の恐怖から解放されると俺は汗ばんだ身体を独房の冷たい畳につけ、喉に詰まった痰を吐き出すようにして大きく息を吐き、何度も叫んだ。
「はああ~っ!はあああ~っ!」以前、俺を診察した医務官は、俺の行動を見て「統合失調症の兆候が出ている」とか言って、看守長に死刑執行の一時停止を提案したらしいが、そもそも、死を前にしてマトモな精神を保っていられる奴がこの世にいるのだろうか?
と言うか、そいつこそ、統合失調症の患者よりも、よっぽどイカれていやしないか?「はあああああ~っ!あ!はあああああああ~っ!」俺はもう喉が引きちぎれそうなほどに痛んでも尚、生き残った歓喜の雄たけびを止めようとはしなかった。
その時、独房の扉が何者かによってノックされる。その重苦しい音は、比喩ではなく本当に太いこん棒のようになって俺の胸を串刺しにし、俺の身体は釣り上げられ堤防に打ち付けられた魚体のように大きく反り返った。俺は驚愕し、歓喜の雄たけびは止んだ。
「佐野。面会だ」
格子付きの窓から、網谷の無表情がじっと俺を見下ろしていた。
面会室の照明を鈍く反射するアクリル板の向こうに、弁護士の牧野のスーツ姿がうつっている。若禿げのせいで広い額と、それに肌がつるんとしているせいか、卵みたいな顔をしているなと俺はいつも思った。
「体調はいかがですか?」
牧野の問いかけに、俺はまだ汗で濡れている頭を掻きむしり、少し考えてから「なんとも言えねえな」とこたえる。
「抗精神薬は処方されているのですか?」
牧野は、今度は俺ではなく隣にいる網谷に向かって問いかける。網谷は、俺たちのやり取りを逐一書き写していたノートを閉じる。
「医官が『必要なし』と判断しているので、一週間前から処方していない。食事の量も通常と変わらない」
網谷の横顔を見つめながら俺は、やはり気味の悪い奴だ、と思った。死刑囚の弁護士に質問されて普通、マトモにこたえる刑務官なんていない。そんな奴が、死刑囚がいるF棟を担当して大丈夫なのか?それとも、そんな奴だから他の刑務官連中が絶対に嫌がるF棟なんかにずっと配属されているのだろうか?面会や風呂の時間を長くしてくれたり収監者想いなのかと思いきや、こちらから話しかけても無視するし、嫌味を言ったり突っかかっても表情一つ変えない。こいつの感情の薄い目で見つめられると、俺はまるで自分の全てを見透かされているような、いつも妙に嫌な気持ちにさせられる。
牧野は自分で質問したくせに「そうですか」とあまり興味なさそうな声を出す。目の前のテーブルに、編集者が漫画家の原稿を入れるような大きめの封筒を置き、おもむろに紐を解き始める。
「少なくとも事件発生当時には、佐野さんが統合失調症にり患していたことは間違いなさそうです」
牧野が取り出したのは精神鑑定書だった。公判中に俺が鑑定を受けたのとは別の医師が作成したものらしい。
「佐野さんは統合失調症のために事件当時は心神喪失か、少なくとも心神耗弱の状態だった。心神喪失であれば無罪、心神耗弱であれば減刑されるべき事件です」
俺は思わず唾を飲み込んだ。上告審でも負け、死刑執行の日を待つだけの身になった今「無罪」「減刑」という言葉は、砂漠の彼方に屈折して見える清らかな泉のように思えた。
「この鑑定書を新たな証拠として裁判所に提出し、再審請求を行いたいと思います」
俺は頷いたが、自信が無かった。この鑑定書が作られる前、俺は牧野から統合失調症に関する資料を複数受け取っていた。資料には、診断に必要な妄想症状の例として「電磁波攻撃」とか「宇宙人と交信」とかいう言葉が並んでいた。
「佐野さんは事件当時、被害者女性から『ひどい悪口を言われている』という妄想があった。そうですね?」
牧野の食い気味の問いに、俺の薄く開いた唇から「あぁ」と掠れた声が出る。隣で網谷は、再びノートを開き俺たちのやり取りをメモしている。娑婆にいる時、俺は脳に「電磁波攻撃」を食らったり、「宇宙人と交信」したことがあっただろうか?一人で部屋にいる時、蛍光灯から放たれる「ジィ……」という音が、ハエの羽音みたいでうるさいと大家にクレームをつけて喧嘩になったことはあったが……。だが、この手にかけた5人の女たちが俺にかけた暴言なら覚えている。その一つ一つは、今もはっきりと、俺の脳裏に焼き付いている。
29歳で初めて付き合い、たった1か月で別れた女にぶつけられた言葉は「食べ方が汚い」だった。俺の箸の使い方が下手なので「育ちが悪い」と言われた気もする。俺が片親だからバカにしているのか?殴られないと高をくくっていた女を押し倒し、俺は呆気に取られている女の腑抜けた顔面に何度も、夢中で拳を振り下ろした。
2人目は、婚活バーティーで知り合った30代前半の女だった。最初の面談では俺のことを「ユーモアがあって面白い人ですね」と言っていたのに、いざカップリングタイムになると俺を選んでくれなくて、建物を出たあとでそいつの後をつけてみたら、そいつは一緒に来ていた女友達と笑いながら「佐野とかいうオジサン、つい最近までお母さんと二人で暮らしてたらしいよ?」とか「え、キモー!」とか「マザコンじゃん!」とか「鉛筆の持ち方がヘンだった」とか言って俺のことを散々馬鹿にしていたから、俺は女の後をずっとつけて、女が一人になったところを襲って殺した。
3人目は、2日で辞めたバイト先で知り合った20代の女だった。初日にアドレスを交換した時は愛想が良かったのに、こちらからメールを送っても返信が無かったので殺した。
4人目は、初めて部屋に呼んだデリヘル嬢だった。居間に置いた母の仏壇を見て「アンタ、お母さんの前でするの?」と笑われたので殺した。
作品名:死刑囚の視点(②佐野剛) 作家名:moshiro