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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第一章「喫茶店迄」

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 さう、時間にしてそれは一分位後の事だつたよね。私が不図眩暈から覚め何事もなかつたかのやうに立ち上がつたのは。君と雪は何だかほつとしたのか互ひに顔を見合はせて笑つてゐたね。その時君は初めて雪と目が合つた筈だが、君の目には雪はどのやうに映つたんだい? 私には雪はその時既に尼僧に見えたのだ……。
 眩暈から覚め何事もなかつたやうにすつくと立ち上がつた私を見て、君と雪は初めて見詰め合つて互ひに安堵感から不図笑顔が零れたが、その時の雪の横顔は……今更だが……美しかつた。雪は何処となくグイド・レーニ作「ベアトリーチエ・チエンチの肖像」の薄倖の美女を髣髴とさせるのだが、しかし、凛として鮮明な雪の横顔の輪郭は、彼女が既に持つてゐた《吾が道ここに定まれり》といつた強い意志を強烈に表してゐたのである。
―大丈夫?
 と、雪が声を掛けたが、私は一度頷いたきり茜色の夕空をぢつと凝視する外なかつた……。
 何故か――。
 君は多分解らなかつただらうが――後程雪には解つてゐたのが明らかになるが――私には或る異変が起きてゐたのだ。血の色の炎が燃え上がるやうな業火が目の網膜に張り付いた事は言つたが、もう一つ私の視界の周縁を勾玉模様の小さな光雲が、大概は一つなのだが、最早消える事なく今もずつと時計回りに若しくは反時計回りにゆつくりと回つてゐる事である。そして、私はその光雲を人魂だと直感的に判断し、その判断を疑ふ事もなく、今も人魂だと信じてゐるのさ。
 人間の体軀は殆ど水分で出来てゐる事と此処が北半球といふ事を考慮すると、時計回りの回転は上昇気流、つまり、私の視界から何か――多分それは魂魄に違ひない――が憧(あくが)れ出て、若しくは私の全く知らない赤の他人の魂魄が私に侵入し続けてゐる事を意味してゐたのである……。
 勾玉模様の光雲が見えるのは大概一つと言つたが、時にそれが二つであつたり三つであつたり四つであつたりと日によつて見える数が違つてゐた。星がその死を迎えるとき大爆発を起こして色色なものを外部に放出するが、人の死もまた星の死と同じで、人が死の瞬間例へば魂魄は大爆発を起こし外部に発散する……。それが此の世に未だ《生きる屍》となつて杭の如く《存在》する私をして魂魄のカルマン渦が発生し、それが私の視界の周縁に捉へられるのだ。だから多分、その光雲の一つは私の魂魄で、その他は死んだ《もの》の魂魄の欠片に違ひない……私はさう解釈してしまつたし、それで間違ひないと今も思つているんだ……。

…………
…………
 
 さて、君と雪と私はSalonの真似事が行れる喫茶店に向け歩き出した。その途中に古本屋街を通らなければならないのだが、君は気を利かせてくれたのだらう、その日に限つて古本屋には寄らずに真つ直ぐに喫茶店に向かひ、私と雪を二人きりにしてくれたね。有難う。
 私は先づ馴染みの古本屋で白水社版の「キルケゴール全集」全巻を注文し、それから雪とぶらぶらと古本屋を巡り始めたのだつた。
 古本屋との遣り取りはいつも筆談だつたので、馴染みの古本屋の主人は多分今でも私の事を聾啞者だと思つてゐるに違ひない。それにそこの古本屋の主人は何かと私には親切でその日も「キルケゴール全集」を注文すると、どれでも好きな本を一冊おまけしてくれるといふので、私は、埴谷雄高の『死霊(しれい)』を凌駕するべく書き出したはいいが、書き出しの筆致の迷ひや逡巡等が取り繕ひもせずに直截的に書き記された現代小説の傑作の一つ、武田泰淳の『富士』の初版本を選んだのだ。
『富士』を読む時は、私は何時もブラームスの「交響曲第一番 ハ短調 op.68」を聴く。どちらも作品を書き連ねる事に対する迷ひや逡巡等がよく似てゐると思はないかい? それに泰淳さんは盟友の椎名麟三が洗礼を受け基督者になつた時、埴谷雄高が椎名麟三を誹(そし)つた事と、そして純真無垢といふのか天衣無縫といふのか、埴谷雄高曰く「女ムイシユキン公爵」たる泰淳夫人で著名な随筆家の百合子夫人に対する埴谷雄高の好意への多分「嫉妬」を死す迄泰淳さんは根に持つてゐた節があるが、そこがまた武田泰淳の魅力でもあるがね。
 さて、雪はSalonの真似事が開かれてゐた喫茶店に着く迄終始私の右に並んで歩き、左手で私の右手首を少し強く握り締めたままであつたのである。
 馴染みの古本屋を出たとき、東の空には毒毒しい程赤赤とした満月が地平から上り始めてゐたが、その満月の「赤」が私の目に張り付いた燃え盛る業火の炎の色に似てゐたのである。
――成程……この業火の色は《西方浄土》の日輪の色を映したものか……。
 その時、雪が私の右手首を少し強く握り締めてゐたのは多分理不尽な陵辱を受けた「男」に対する恐怖といふよりも、
――今暫くは逝かないで。
 といふ私に対する切願が込められてゐたやうに私は確信してゐる。唯、私は女性に対しては無頓着なので雪のしたいやうにさせ、雪に為されるがまま夕闇の古本屋街を二人で漫(そぞ)ろ歩きを始めたのであつた。
 当然、私は伏目であつた。雪は私の右手首を握つて私を巧く《操縦》してくれたのである。雪が、私を捕まへてないと何処か、つまり《彼の世》へ行つてしまふと直感的に感じてゐたのは間違ひない。そして、雪はかう切願してゐたに違ひないのだ。
――今は未だ逝かないで……。

 ここで話が横道に逸れるがね、君に私の《死後の世界》について預言しておかう。
 私が死して後、私のゐない此の世の有様こそ私の《死後の世界》の様相を忠実に反映してゐると考へておくれ。君や嘗ての雪、即ち攝願やSalonの仲間を始め、私のゐない此の世がまあまあ過ごし易ければ私は極楽浄土にゐるし、此の世が地獄の有様だとすれば私も地獄に堕ちたと思つてくれ給へ。私のゐない此の世の有様こそ私の《死後の世界》に外ならないのさ。
 まあ、それはそれとして、私の死後、君達は、特に攝願、つまり俗名でいふところの雪は、彼女が出家する迄に私が施した、例へば雪の為されるがまま私が何の抵抗もせずそれに無言で従つた事などは、雪の《男》に対する憎しみやそれに伴ふ底知れぬ苦悩といふ雪の内部でばつくりと傷口の開いた《心の裂傷》を縫合し、その傷に軟膏薬を塗布して治療する意図があつての事で、多分に私の《存在》によつて雪も癒された筈だが、といふのも幾ら《生きる屍》に為り下がつたとはいへ、私も生物学的には《男》そのものだからね。
 そして、雪は出家し攝願と為つた訳だが、攝願が尼僧でゐる間は《禊(みそぎ)の時間》に過ぎない。攝願の内部の《心の裂傷》が癒え、その傷の《瘡(かさ)蓋(ぶた)》が剥がれ落ちると、攝願の《禊の時間》は終はりを告げる。さうして、暫くすると、私も君もSalonの仲間も知つてゐる或る「男」に攝願は惚れ、攝願は何もかも捨ててその「男」の元へと身を寄せる筈だ。さうして再び雪に戻るのさ。「男」は「男」で、雪に逢つた時からずつと惚れてゐた。そこで雪はその「男」の子供を身ごもり「母」になる。雪の第一子は男の子で、雪はその子に私の名を付ける。勿論、雪の配偶者たるその「男」も大賛成さ。まあ、これ以上は話さない方がいいので黙つて彼の世に持つて行くよ。