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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第一章「喫茶店迄」

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 さて、君に話し掛けられても私を微笑みながらぢつと見続けてゐた雪の目は、フランツ・カフカかエゴン・シーレのSelf-portraitの眼光鋭き眼つきを一見髣髴とさせるやうに見えるが、しかし、よくよく見てみると雪の目は柔和そのものであつたのだ。
 君も雪の行動が奇妙な点には気が付いてゐた筈だが、雪は未だ《男》に対して無意識に感じてしまふ恐怖心をあの時点の自身ではどう仕様もなく、雪は《男》を目にすると自然と雪の内部に棲む《雪自体》がぶるぶると震へ出し、雪の内部の内部の内部の奥底に《雪自体》が身を竦(すく)めて《男》が去るのをぢつと堪へ忍ぶといつた状態で、雪は君の顔を一切見ず君と話をしてゐたんだよ。
 その点、雪は私に対しては何の恐怖心も感じなかつたのだらう。つまり、雪にとつて私は最早《男》ではなく、人畜無害の《男》のやうな《存在》、しかも、
――この人の人生はもう長くない……。
 と、多分だが、私を一瞥した瞬間全的に私といふ《存在》を雪は理解してしまつたと、そして、また、そんな雪を、私は雪の様子からこれまた全的に雪を理解してしまつたのだ。
と、そんな事を思ふ間も無く、あの時は無意識裡に私の右手は雪の頭を撫でる様に不意に雪の頭に置かれたが、雪は何の拒否反応も起こさず、これまた全的に私の行為を受け入れてくれたのだ。
 さて、私が何故《黙狂者》となつてしまつたかを君も薄薄気付いてゐた筈だが、それは私の人生が短く終はるしかないといふ事とも関係してゐたのだらうけれども、私が一度何かを語り出さうと口を開けた瞬間、我先に我先にと無数の言葉が同時に私の口から飛び出ようと、一斉に口から無数の言葉が渾沌としたまま飛び出さうとしてしまふからなのだ。多少、無念ではあるがね、人生が短く終はるしかない私にとつて、私の《未来》を閉ぢ込めてゐる筈の私の内部の《未来》は、結果として既に無きに等しいので、私の内部の《未来》には時系列的な秩序、若しくは構造が生まれる筈もなく、つまり、私の《未来》は既にまつ平らで薄つぺらな薄膜の如きものでしかなく、それは、つまり、無きに等しいが故に《渾沌》としてゐたのだ。私が口を開き何かを語り出さうとしたその瞬間に最早全ては語り尽くされてしまつてゐるといふ去来(こらい)現(げん)の転倒が私の身には起きてゐて、それ故に《他者》にはそれが《無言》に聞こえるだけなのだ。つまり、《無=無限》といふ奇妙な現象が既に私の身には起こつてゐたのだ。
 ここで、私の内部が《未来》と言つてゐるのは正しく物理学的なる時間の《未来》を指してゐる。つまり、 それは、距離が時間に換算できることは物理学の初等を学んでゐれば解るはずだが、距離があるといふ事は既に其処は《過去》であり、しかし、此の世は不思議なもので、或る時に距離ある《過去》の世界に「目的地」が出現するとその距離ある《過去》は《未来》に反転する。この論法で《現在》を表現すれば、それは現存在の皮袋、つまり、皮膚のことさ。《現在》は現存在の皮袋にのみあり、それ以外《現在》が存在する事はあり得ないんだ。そして、現存在の肉体の内部は物理学的なる時間で《未来》、その現存在のみで成立する《未来》といふ事なのさ。解るかい?
 さて[積緋露雪1]、君は私が雪の頭にそつと手を置いた時、私が口を開いたのを眼にしただらう。多分、雪はこれまた全的に私の無音の《言葉》を全て理解した筈だ。君はあの時気を利かせてくれて、ずつと黙つて私と雪との不思議な《会話》を見守つてくれたが、仮に心といふものが生命体の如き《もの》で、傷付きそれを自己治癒する能力があるとするならば、雪の心はざつくりとKnife(ナイフ)で抉(えぐ)られ、あの時点でも未だ雪の心のその傷からはどくどくと哀しい色の血が流れたままで《男》に理不尽に陵辱された傷口が塞がり切れてゐなかつたのだ。それが痛々しくも鮮明に私には見えてしまつたので、《手当て》の為に雪の頭にそつと手を置いたのだ。
 それにしても雪の髪は烏(からす)の濡れ羽色――君は烏の黒色の羽の美しさは知つてゐるだらう。虹色を纏つたあの烏の羽の黒色程美しい黒色は無い――といふ表現が一番ぴつたりな美しさを持ち、またその美しさは見事な輝きをも放つてゐた。
 さて、君はあの瞬間雪の柔和な目から恐怖の色がすうつと消えたのが解つたかい? 
 そして、君もご存知の通り、雪の目から恐怖の色がすうつと消えたと思つた瞬間、私は不意の眩暈(めまひ)に襲はれたのだ。
――どさつ。
 あの時、先づ、私の目の前の全てが真つ白な霧の中に消え入るやうに世界は白一色になり、私は腰が抜けたやうにその場に倒れたね。しかし、意識は終始はつきりしてゐた。君と雪が突然の出来事に驚いて私に駆け寄つたが、私は軽く左手を挙げて、
――大丈夫。
 といふ合図を送つたので君と雪は私が回復する迄その場で見守り続けてくれたが、あの時は私の身体に一切触れずにゐて見守つてくれて有難う。私が他人に私の体軀を勝手に触られるのを一番嫌つてゐる事を君は知つてゐる筈だからね……。
 あの時の芝の青臭い匂ひと熊蝉の鳴き声は今でも忘れないよ。
 私が眩暈で倒れた時に感覚が異常に研ぎ澄まされた感じは今思ひ返しても不思議だな……。あの時私の身に何が起きてゐたのかは明瞭過ぎる程はつきりと憶えてゐるよ。
 それでも眼前が、世界全体が、濃霧に包まれたやうに真つ白になつたのは一瞬で、直ぐに深い深い深い漆黒の闇が世界を蔽つたのだ。つまり、当然私はその時外界は見えなくなつてゐたのだ。
 するとだ、漆黒の闇の中に金色(こんじき)の釈迦如来像が現れるとともに深い深い深い漆黒の闇に蔽はれた私の視界の周縁に二つの勾玉の形をした光雲――光の微粒子が雲の如く集まつてゐたから光雲と名付ける――が現れ、左目の視界の周縁だと思ふ辺りを時計回りに、右目の視界の周縁だと思ふ辺りを反時計回りに、つまり、数学でよく見る二つの集合が交はつた図そつくりに私の視界にその光跡を残しながら、その光雲がぐるぐると私の視界の周縁を周り出したのだ。
 そして、その金色の釈迦如来像がちらりと微笑んだかと思ふ間もなく不意と消え、世界は一瞬にして透明の世界に変化(へんげ)した……。
 眩暈でぶつ倒れたままの私の視界全体に拡がつたその薄ら寒い透明な世界に目を凝らしてゐると、突然、赤赤と燃え上がる業火の如き炎が眼前に出現したのだ。それは正に血の色をした業火だつたよ。
 その間中、例の光雲は視界の周縁をずつと廻り続けてゐた……。
 私が悟つたのはその時だ。自分の死についてそれ以前は未だ何処となく他人(ひと)事のやうに感じてもゐたのだらう。私はまだ己の死に対して、覚悟は正直言つて出来てゐなかつた、が、私が渇望してゐた《死》が直ぐ其処迄来ているなんて……私はその時何とも名状し難い《幸福》――未だ嘗て多分私は幸福を経験した事がないと思ふ――に包まれたのだ。
――くつくつくつ。
 私は眩暈で芝の上にぶつ倒れてゐる間《幸福》に包まれて、内心哄笑してゐたのさ。
 しかし、燃え盛る業火は、私が眩暈から覚め立ち上がつても目の奥に張り付いて……ちえつ……今も見えてしまうのだがね。