審問官第一章「喫茶店迄」
如何なる手が、敢へてその炎を捉へるのか?
更に如何なる肩が、如何なる術が、
汝の心の臓の筋肉を捩る事が出来得るのか?
更に汝の心臓が拍動を始めた時、
如何なる恐ろしき手が? 如何なる恐ろしき足が?
如何なる槌が? 如何なる鎖が?
如何なる窯の中に汝の脳はあつたか?
如何なる鉄床が? 如何なるものが? 恐ろしき程に握るのか、
その死する程の恐怖を敢へて握るのか!
星星が自身の槍を投げ降ろした時
更に自身の涙で天を水浸しにした時、
彼は笑つて自身の御業を観たのか?
子羊を創りし彼が汝を創つたのか?
虎よ、虎よ、燃え上がる光輝、
その夜の森に、
如何なる不滅の手と眼が、
汝の震撼する程の均斉を創り得るのか?
――言ひ得て妙だ。本当にさうだね。つまり、ブレイクの「虎」だ。この異様さは――。
――でも、本来《存在》するとは異様な《もの》なんぢやないかしら。異様だからこそ何人の心を摑んで離さないのよ、《存在》は……。
――つまり、君も《存在》は異様だと思ふんだね。
――異様ぢやなくて何故《存在》は《存在》出来るのよ、うふつ。《存在》に魅せられたらもう《存在》から目が離せなくなるわね、この若冲のやうに。
――つまり、これつて特異点の不気味さなのかもしれない――。つまり、若冲の絵は客体に至極執着してゐるけれども、つまり、一方で自在感も感じられる。つまり、この相反する《もの》が絵として結実してゐるんだが、つまり、それを無限迄引き延ばすと、つまり、どうあつても特異点の問題になる。つまり、若冲の絵から漂ふ不気味な妖気は、つまり、特異点の不気味な妖気に通じてゐる。君もさう思はないかい?
――特異点の問題かどうかは解らないけれども、確かに若冲の絵には執着と自在の二つが混在してゐるわね。これつて正に渾沌の絵だわ。
――つまり、それでも《もの》だから姿形は保持してゐる。不思議だね。つまり、それは更に何処かしら滑稽ですらある。
――若冲の絵は客体と主体の戯れね。どちらも捕捉出来るやうに見えて不可解極まりない。不可解極まりないから最早其処から一時も目が離せなくなる。そして、若冲はその不可解極まりない事をむしろ楽しんでゐるやうにも見えなくもない。
――つまり、それは特異点の罠さ。つまり、若冲は直感的に特異点の不思議を感じ取つてしまつたんぢやないかな。つまり、《存在》の不思議に魅せられてしまつた。そして、其処から一生抜け出せなくなつてしまつた。つまり、絵画三昧の人生だ。
――それにしても若冲の絵にはどう見ても厳格なる創造主はゐないわね……。
――等伯の絵にもね。
私は若冲の絵を凝視しながら、
――神は細部に宿る……。
等と思ひながら、鶏を写生すればする程、当の鶏なる《存在》はあつかんべえをして若冲の筆先から逃げ果(おほ)せてしまふ《存在》に対する屈辱といふのか無力感といふのか、追つても追つても逃げ果せる《存在》といふ如何とも度し難い《もの》を、それでも追はずにはゐられない人間の業の哀しさが若冲の絵には漂つてゐるやうにも思へるのであつた。
――つまり、絶対的な縦関係と、つまり、相対的な横関係の違ひだね。
――えつ、何? さうか、絶対的と相対的な神関係か……。ヴアン・ゴツホとブレイクにとつては神は絶対的な《存在》であるといふ事が基本の世界認識の上での絵で、等伯と若冲は神《存在》は主体と相対的にしか《存在》しない世界認識の結果、こんな絵が描けたのかもしれないわね……。
――つまり、等伯と若冲の絵にも、つまり、神、若しくは仏は《存在》してゐると思ふかい?
――う~ん、神仏習合が等伯にも若冲にも当て嵌まるんだつたならば、当然等伯にも若冲にも神仏は《存在》してゐた筈よ。特に若冲の絵は鶏といふ名の神的な《存在》と戯れてゐる感じがするわ。
――鶏といふ神的な《存在》と戯れてゐるか――。でも、実際のところ、つまり、本当にさうだつたのだらうか? つまり、神との戯れでこんな奇想天外な絵が描けると思ふかい?
――さうね、戯れはおかしいわね。格闘ね。若冲は鶏といふ神的な《存在》と傲岸不遜にも徹底的に格闘してゐたのね……。
――そして、つまり、己とも格闘してゐた。つまり、等伯も若冲も己とも格闘してゐたに違ひない。つまり、さうぢやなきやこんな絵が描ける訳がないよ。つまり、等伯と若冲の絵からは、つまり、森羅万象に数多の神が宿つてゐる、つまり、根本思想のやうなものが滲み出てゐるやうな気がする。つまり、何処にでも神や仏は《存在》してゐる。つまり、勿論、己の中にもね。つまり、等伯も若冲もヴアン・ゴツホやブレイクと同じやうに、つまり、絶えず神とは仏とは何ぞやと問ひ続けてゐたに違ひない。しかし、つまり、ヴアン・ゴツホやブレイクとは、つまり、根本的に世界認識の仕方が違つてゐる為に、これ程凄い絵が描けたやうな気がするんだが、君はどう思ふ?
――でも、ヴアン・ゴツホやブレイクと何処かでは繋がつてゐると思ふの、等伯も若冲も……。それぢやなきやヴアン・ゴツホが浮世絵に魅かれる筈はないわ。それにブレイクも絵と文字が混在した東洋的な画風で絵を描きつこないもの。きつと彼等にも共通する普遍的なものは《存在》してゐたと思ふの。
――つまり、それでもヴアン・ゴツホやブレイクの作品から受ける印象と、つまり、等伯と若冲から受ける印象が全く違つてゐるのは何故だい?
――さうね、やつぱり絶対的な神関係と相対的な神関係の違ひぢやないかしら?
――でも、つまり、四人ともに神、若しくは仏は《存在》してゐるね。つまり、それが共通点、つまり、普遍的な《もの》なんぢやないかな。
――さう! そうね。絶対的と相対的といふ違ひはあるけれども、四人ともに神または仏が世界に《存在》してゐた……。そして、その神ある世界に魅せられた故に絵を描かざるを得なくなつてしまつたんだわ。つまり、如何ともし難い《存在》に魅入られてしまつたんだわ。何としても自分の手でこの世界といふ何とも不可思議な《存在》が数多《存在》してしまふこの世界といふものを一度握り潰して、そして世界を再創造し直してみたかつたんぢやないかしら。其処には神への対抗心もきつとあつた筈よ。しかし、さすがは神ね。ヴアン・ゴツホもブレイクも等伯も若冲も簡単に一捻りされてしまつて、神、若しくは仏性はその素顔を決して見せる事はなかつたのね。それでも彼等はこの如何ともし難い世界と格闘せずにはゐられなかつた。それは哀しい人間の業ね。
作品名:審問官第一章「喫茶店迄」 作家名:積 緋露雪