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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第一章「喫茶店迄」

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ねえ、君。確かに人は麺麭のみに生きるに非ずだね。これは間違ひない。だつて、人は自身の生に何か理由付けしないとこれつぽつちも生きてゐられやしないぢやないか。
――私は何の為に生きる? 
 この言葉が世界に満ち満ちてゐる。誰しもが自分の人生について何かしらの思ひを馳せ、『私は何の為に生き《存在》してゐるのか?』と、絶えず自問自答してゐる。麺麭を得るのにき汲汲としてゐる生活はそれはそれで物凄く充実してゐる人生に違ひないが、しかし、一度、
――私は何の為に生きてゐる? 
 といふ陥穽に捉へられると、もう其処から一歩も身動き出来なくなつてしまふ。その満たされる事のない自身の難問を解かう、と或る者はそれを信仰に求め、或る者はそれを物欲に転換して心なる不思議なものを満たさうとするが、詰まる所、正覚でもしない限り、その答へは見つかりつこない。それは死んでも尚解らないままに違ひないのだ。
 ねえ、君。そもそも心は満たされるものなのだらうか。麺麭が十二分に得られたからといつて、心はちつとも満たされる事はない。そこで手つ取り早く《他者》をひつ捕まへて《自己》を満たさうとするが、しかし、《他者》もまた満たされぬ心を持つ宿命にあるので、傍から見るとどうしても《自己》と《他者》は傷を舐め合つてゐるやうな奇妙な状態に置かれる事になる。それは《他者》に対して非礼な振舞ひだ。それは《自己》を満たすためにのみに《他者》を利用してゐるだけだからね。
――人は麺麭のみに生きるに非ず……。
 ねえ、君。君はこれをどう思ふ? 私は前にも言つたが、私自身をして己に喰はれる食物以下の下等な生き《もの》だと看做してゐるが、しかし、それでも今の無為な唯死を待つのみの日日を送つてゐると、やはり、
――人は麺麭のみに生きるに非ず……。
 といふ難問と向き合はざるを得ない。多分、これは生に対する或る種の免罪符なのかもしれぬがね。しかし、どうあつてもこの難問には向かひ合はざるを得ないのだ。多分、それに対する答へはないだらうがね。しかしだ、人一人此の世に生きたのだ。この事実は消せない筈だ。へつ、だが、私には胸を張つて、
――俺は生きた! 
 と言へやしない。どうしても言へないのだ。何故だらうね? 君には解るかい? この口惜しさが! 

…………
…………

『さうか。ブレイクはこの作品といふものを此の世に残した御蔭で今生きてゐる私は既に死んで久しいブレイクの何かに触れたやうな気にさせてくれる。有難い事だ。
 等と、私は思ひながらブレイクの絵を凝視してゐたのであつた。
――人は麺麭のみに生きるに非ず。そして、人は死後も何らかの形で生を繋げる! このブレイクの作品が好例ぢやないか! これは複製だけれども、ブレイクの手によつて作り上げられた作品が今を生きる私の眼前にあつて、私はそれを鑑賞出来るぢやないか。ブレイクの詩がブレイクの死後であつても今を生きる私に読めるぢやないか! 此の世に一度《存在》してしまつたものは、何であらうがその死後もその《存在》の証を何らかの形で残す。《精神》のRelay! はつはつ』
 等と思ひながら、尚も私は感慨深げにブレイクの絵を凝視するのであつた。
 すると、
――ねえ、ブレイクにとつて無限つて何だつたのかしら? 
 と、不意に雪が訊ねたのであつた。
――つまり、《存在》の淵源にして、つまり、究極の目標だつたんぢやないかな。つまり、ブレイクは無限を渇望せざるを得なかつた。つまり、それを宿命と名付けるんだつたならばだ、つまり、宿命としか言ひやうがない。実際のところは、僕には良く解らないんだけれどもね。
――さうね。私も実のところ良く解らないの。えへつ。でも、ブレイクの絵には魂を衝き動かす衝迫力といふのか、何か不思議な力を感じるわ。
――さうだね。
 と、Memo帳から目を離し、私はブレイクの絵を凝視するのであつた。
『……何なのだらうか……。この時代をいとも簡単に飛び越えてしまふ力の源は!』
 と思ひながら私はゆつくりと瞼を閉ぢるのであつた。
――――ううううああああああああ~~。。
 赤の他人の彼の人は相変はらず、何処とも知れぬ何処かへと向かつてゆつくりと旋回しながら虚空を飛翔してゐたのであつた。彼の人もまたブレイクと同じやうに、死んでも尚、生者の魂を衝き動かさざるを得ない何《もの》かを此の世に残して死んで逝つたのだらうか……。
――つまり、ヴアン・ゴツホもブレイクも主体が持つただならぬ狂気といふのか、つまり、表現せざるを得なかつた、つまり、魂の叫びのやうなものが全的に表現されてゐる。それと較べると、つまり、この長谷川等伯の絵はどうだね?
――う~ん、さうね、何となくだけれども無私な感じがするわ。ゴツホやブレイクとはある意味対極に位置するやうな気がするの。でも、この松林図は等伯の心象風景よね。……人間て……不思議ね。
――この絵は、つまり、徹頭徹尾等伯の主観だね。すると、ヴアン・ゴツホやブレイクと等伯の違ひは何だと思ふ? 
――う~ん、難しい質問ね。うふつ、それが解つてゐれば大学者になつてゐるわよ、うふつ。でもEgo(えゴ)と滅私の違ひぢやないかしら? いや、違ふわね……。
 と言つたきり、雪は口を噤んで等伯の絵を凝視するのであつた。その蛍光燈の明かりで隈どられた雪の横顔は尚更何とも言へずに美しかつたのである。
――この寂寞とした静寂さは何なのかしら……。
 と雪の口から感嘆の言葉が漏れ出たのであつた。
――つまり、無常の恒常といふのかな、これは。
――無常の恒常? 面白い表現ね。さうね。この絵には無常なるが故の恒常が描かれてゐるのかもしれないわね。
――つまり、こんな言葉は無いんだけれども敢へて言へば、つまり、等伯は勿論、若冲もさうなんだけれども、心鏡の絵だね。
――心鏡? どういふ事? 
――つまり、字義そのまま、心の鏡といふ事だよ。
――心の鏡……ね、さうね、正に心の鏡ね。心鏡か……。
 と、その時、不意に私の視界の周縁を小さな黒い影がふわりと横切つたので、私は思はず眼を上げその影の方を見ると、蛍光燈の明かりに誘はれて店内に一匹の蛾が迷ひ込んでゐたのであつた。
『飛んで火に入る夏の虫』
――ねえ、この絵に見入つてゐると自分の心が映るの。不思議ね。等伯はどうしてこんな絵が描けたんだらう……。不思議……。
 私は少し微笑んでから首を横に振つて、解らないといふ合図を雪に送つたのであつた。
――不思議ね……。
――ねえ、つまり、この絵を見てゐると、どうあつても等伯の人生に思いを馳せざるを得ないと思はないかい? 
――さうね……、この境地に至るまでには、それはそれは言葉では言ひ尽くせない途轍もなくとんでもない人生を歩んで来たのは間違ひないわね。
――つまり、確かに等伯の人生は不幸そのものだつたね。それが、つまり、この松林図に昇華されてゐる気がする――。
――私が知る限りだけれども、確か等伯は息子は亡くしてゐるし、右手も不自由になつたし……。等伯の人生は、その画業に反して不幸そのものね……。