審問官第一章「喫茶店迄」
――さうね……、あなたの言ふ通り《光》が此の世の限界速度だとしたならば……、うふつ、《光》はもしかすると死者達が彼の世へ出立する為の跳躍台なのかもしれないわね、うふつ。
銀杏の葉葉から零れる月光の斑な明かりが雪の面に奇妙に美しい不思議な陰影を与へて雪の面で揺れてゐた。
――彼の世への跳躍台? ねえ、君、つまり、それは面白い。つまり、此の世の物理法則に従ふならば、つまり、《光》を跳躍台にして死者が彼の世へ跳躍しても、相対論に従へば光速度を超える事は不可能だ……ふむ。
と、私は思案に耽り始めたのであつた。
――――ううううああああああああ~~。。
ゆつくりとゆつくりと時計回りに彼の人は渦巻きながらも、面は私に向けたまま私の視界の中で相も変はらず仄かに明滅してゐたのであつた。この視界に張り付いた彼の人もまた、《光》を跳躍台にして彼の世へ出立したのだらうか……。不意に月光の明かりが見たくなつて、私は頭を擡げ満月に見入つたのであつた。この月光も彼の世への跳躍台なのか……等等つらつらと考へながら私はゆつくりと瞼を閉ぢて暫く黙想に耽つたのであつた。
――ふう~う。
その時間は私と雪との間には互ひに煙草を喫む息の音がするのみで、互ひに《生》と《死》について黙想してゐるのが以心伝心で解り合つてしまふといふ不思議な、それでゐてとても心地良い沈黙の時間が流れるばかりであつた。
――ふう~う。ねえ、もう行かなきや駄目ぢやないの?
と、雪が二人の間に流れてゐた心地良い沈黙を破つて、さう私に訊ねたのであつた。私はゆつくりと瞼を開けてこくりと頷くとMemo帳を閉ぢ、煙草を最後に一喫みした後、携帯灰皿に煙草をぽいつと投げ入れ、徐に歩を進めたのであつた。
――もう、待つて。
と、雪は小走りに私の右側に肩を並べ、そつと私の右手首を軽く握つたのであつた。私は当然の事、伏目で歩きながらも、しかし、《生》と《死》、そして《光》といふ彼の世への跳躍台といふ観念に捉へられたまま思考の堂堂巡りを始めてしまつてゐたのであつた。
――――ううううああああああああ~~。。
歩道は会社帰りの人や学生等で大分混雑してゐたが、私と雪は肩を並べてその人波に流されるままに歩き始めたのであつた。しかし、伏目で歩く外なかつた私はそれらの雑踏の足しか見なかつたのである。雪も何か考へ込んでゐるやうで暫くは黙つてゐた。と、不意に再び光雲が私の視界に飛び込んで来たのであつた。その光雲もまた私の視界の周縁を時計回りにぐるりと一回りすると、不意に消えたのであつた。と、その刹那、私の視界の中の赤の他人の彼の人は、それ迄ばつくりと開けてゐた大口を閉ぢ、その面を彼方の方へくるりと向け、彼の人はゆつくりとゆつくりと旋回しながら虚空の何処かへ飛翔を始めたのである。
――――ううううああああああああ~~。。
彼の人は相変はらず声為らざる音を唸り上げてゐた。
――《生者》と《死者》と《光》といふ跳躍台か……。
私の思考は出口無き袋小路に迷ひ込んでゐた。
『《存在》とは《生者》ばかりの《もの》ではなく……《死者》もまた《存在》する……か……さて……《生者》から《死者》へと三途の川を渡つた《もの》は……さて……中有で苦悶しながら《死者》の頭蓋内の闇で《生》の時代が走馬燈の如く何度も何度も駆け巡る中……さて……《死者》は自ら《生者》であつた頃の《吾》を弾劾するのであらうか……ふつ……《光》といふ彼の世への跳躍台に……さて……《死者》の何割が乗れるのであらうか……《死者》もまた《存在》といふ《もの》であつた以上……それは必ず《吾》によつて弾劾される《生》を送つた筈だ……ふつ……ふつふつふつ……《もの》は全知全能の《神》ではないのだから……《吾》は必ず《吾》に弾劾される筈だ……しかし……《死者》の頭蓋内の闇が……《死者》にとつて既に《光》の世界に……つまり……《闇即ち光》と……《生者》が闇に見えるものが《光》と認識される以外に《死者》にとつて為す術がないとすると……ちえつ……例へばそもそも《死者》の頭蓋内の闇が、即ち死んだ《もの》にとつて《光》でしかないとしたならば、その《光》とは何なのだ!』
――――ううううああああああああ~~。。
私は私の視界に張り付いた彼の人を凝視するばかりであつた。最早私の自意識から《意識》が千切れて苦悶の末に私の意識が《眼球体》となる事はなかつたが、私は彼の人の顔貌を凝視しては、
――貴様は既に光か!
と、詰問を投げ掛けるのであつた。
『《死者》が既に《光》の世界の住人ならばだ……地獄もまた《光》の世界なのか……《光》にも陰陽があつて陰は地獄……陽は浄土なのか……ふつ……さうなら……ちえつ、そもそも《光》が進むとは自由落下と同じ事なのか……さうすると……自由落下を飛翔と感じるか……奈落への落下と感じるかは本人の意識次第ぢやないか……《吾》が《吾》を弾劾して……ふつ……後は閻魔大王に身を委ねるのみ……ちえつ……馬鹿らしい……《吾》は徹頭徹尾《吾》によつて弾劾し尽くされなければならぬ! ……さて……光速度が今のところ有限であるといふ事は……此の世……即ち此の宇宙が有限の《閉ぢた》宇宙である事のなによりの証左ではないのか……現在考へられてゐる此の膨脹宇宙が無限大に向かつて膨脹してゐるとすると……光速度も……もしかすると定数なんぞではなく無限大の速度に向かつて加速してゐるのかもしれないぢやないか……特異点……例へば一割る零は無限大に向かつて発散する……また、Black hole(ブラツクホール)の中にも特異点が《存在》する……さうか! この宇宙にBlack holeが蒸発せずに《存在》する限りにおいてのみ《光》は《存在》するのではないか……特異点では因果律は破綻する……ふむ……此の天の川銀河の中心にあると言はれてゐる巨大Black hole……吾吾生物はこの因果律が破綻してゐる特異点の周縁にへばり付いて漸く漸く辛うじて《存在》する……つまり際どい因果律の下に《存在》する……ふむ……はて……もしかすると特異点、若しくはBlack holeが《存在》する限りにおいてしか吾吾も《存在》しない……つまり特異点とは《神》の異名ではないのか!』
作品名:審問官第一章「喫茶店迄」 作家名:積 緋露雪