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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第一章「喫茶店迄」

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 今は亡き母親がよく言つてゐたが、私は既に赤子の時から変はつてゐたさうだ。或る一点を凝視し始めたならば、乳を吸ふ事は勿論、排泄物で汚れたおむつを替へるのも頑として拒んださうだ。ふつ、私は生まれついて食欲よりも凝視欲とでも言つたら良いのか、見る事の欲望が食欲より――つまりそこには性欲も含んでゐるが――優つてゐたらしい。赤子の時より既にある種の偏執狂だつたのさ。君が私を《黙狂者》と呼んだのは見事だつたよ。今思ふとその通りだつたのかもしれない。
 そんな時だ、雪に出会つてしまつたのは……。

 私が何故Television(テレビ)を殆ど見ず、街中を歩く時伏目になるのかを君はご存知の筈だが……、実際、私には他人の死相が見えてしまふのだ。街中で恋人と一緒に何やら話してゐて快濶に哄笑してゐる若人にはつきりと死相が見える……体の不自由なご主人と歓談しながらにこにこと微笑み車椅子を押してゐるそのご婦人にはつきりと死相が見える……Televisionで笑顔を見せてゐるTalent(タレント)にはつきりと死相が見える等等、君にも想像は付く筈だが、この他人の死相が見えてしまつた瞬間の何とも名状し難い気分……これは如何ともし難いのだ。それが嫌で私はTelevisionを見ず、そして、いつも街中を伏目で歩くのだ。
 そんな私が馥郁(ふくいく)たる仄かな香りに誘はれて大学構内の欅を見た時、その木蔭のBench(ベンチ)で彼女、つまり、雪が何かの本を読んでゐるのを目にしたのが、私が雪を初めて見た瞬間だつた。
 その一瞥の刹那、私は雪が過去に男に嬲られ陵辱されたその場面が私の脳裡を掠めたのである。そんな事は今迄無かつた事であつたが、雪を見た刹那だけそんな不思議な事が起こつたのであつた。その時は、私は雪に声も掛けずにそのまま欅の木の傍らを通り過ぎたのだがね。
しかし、その時を境として私は、雪が欅の木の下のBenchに座つてゐないかと、その欅の前を通る度に雪を探すやうになつたのである。
 君もさうだつたと思ふが、私は大学時代、深夜、黙考するか本を読み漁るか、または真夜中の街を徘徊したりしては朝になつてから眠りに就き夕刻近くに目覚めるといふ自堕落な日日を送つてゐたが、君とその仲間に会つたところで私は無言のまま、唯、君たちの会話を聞くに過ぎぬにも拘らず、私は君とその仲間に会ふために夕刻になると大学にはほぼ毎日通ふといふ、今思ふと不思議な日々を過ごしてゐた訳だ。
 話は前後するが、今は攝(せつ)願(ぐわん)といふ名の尼僧になつてゐる雪の男子禁制の修行期間は疾(と)うに終はつてゐる筈だから、雪、否、攝願さんに私の死を必ず伝へてくれ給へ。これは私の君への遺言だ。お願ひする。多分、攝願さんは私の死を聞いて歓喜と哀切の入り混じつた何とも言へない涙を流してくれる筈だから……。
 さうさう、それに君の愛犬「てつ」こと「哲学者」が死んださうだな。さぞや大往生だつたのだらう。君は知つてゐるかもしれないが、私は「てつ」に一度会つてゐるのだ。君の母親が、
――家(うち)にとんでもなく利口な犬がゐるから一度見に来て。
 と、私の今は亡き母親に何か事ある毎に言つてゐたのを私が聞いて、私は「てつ」を見に君の家に或る日の夕刻訪ねたのだが、生憎、君はその日は不在で、君の母親の案内で「てつ」に会つたのだよ。
「てつ」は凄かつた……。夕日の茜色に染まつた夕空の下、「てつ」の赤柴色の毛が黄金(こがね)色(いろ)に輝き、辺りは荘厳な雰囲気に蔽はれてゐたのさ。その瞬間、私にとつて「てつ」は「弥勒(みろく)」になつちまつた。私を見ても「てつ」こと「哲学者」若しくは「弥勒」は全く警戒しないので君の母親は私と「弥勒」の二人きりにしてくれた。それはそれは有難かつた。暫く「弥勒」の美しさに見蕩(みと)れてゐると「弥勒」が突然、私に、
――うぁぁお~んわぅわぅあぅ~~。
 と、何か私に一言話し掛けたのである。私にはそれが「諸行無常」と聞こえてしまつたのだ……。
今でもあの神神しい「弥勒」の荘厳な美しさが瞼の裏に焼き付いてゐるぜ……。彼の世で「弥勒」に会へるのが楽しみだ……。
さて、話を雪の事に戻さう。
 或る初夏の夕刻、君と一緒にあの欅の前を歩いてゐると、雪がBenchに座つていつものやうに何かの本を読んでゐた。

…………
…………
 
 話を先に進める前に君に言つておくがね、しかし、君には多分薄薄と解つてゐた筈だが、私が私であるといふ自同律を嫌悪する私は、性に対してもその通りだつたのだ。思春期を迎へ夢精が始まり、まあ、それは《自然》の事だから何とか自身を納得させたがね、しかし、自慰行為は幻滅しか私に齎さなかつた。射精の瞬間の《快楽》がいけないのだ。その《快楽》は私に嘔吐を反射的に齎すものでしかなかつた……。

…………
…………
 
 君は「ⅹの零乗=1」といふ事は知つてゐるね。私はこの雪との出会ひの時に、自同律の嫌悪を超克するには《死》しかないと確信してしまつたのだ。零乗の零が一回転に見え、零乗されたⅹなる《存在》は皆平等に1になる、つまり、私にとつてそれは現世での《一生》に見え、更に《存在》全てに平等に訪れる《死》をも其処に見てしまつたのだ。生命は死の瞬間確率1になる。否、もしかすると《存在》はその死の瞬間に零、若しくは∞、つまり、《無》、若しくは《無限大》に化けるのかもしれぬが、しかし、つまり、1=1といふ自同律は《死》で一応完結する筈さ。私はこれで自同律の嫌悪は終はるに違ひないと自覚せざるを得なかつたのだ……。それが当時の考だつたのだが、今は違ふ。死しても尚、現存在は《一》なる存在になる事はない。何故って、人間死んでもその評価は一向に定まらぬからね。100年経たうが、同じ事だ。他無難、現存在の評価は人類絶滅時に定まるのかも知れぬね。
――はつ。

…………
…………
 
 ところで、雪を除いて過去に私を一方的に愛してしまつた女性たちは或る時期を過ぎると必ず私に性行為を求めて来たので私は《義務》でそれら全てに応じたが、性行為が終はると《女の香り》が私を反射的に嘔吐させる引き金になつてしまつたのだ。勿論、私は同性愛者ではない。だから、尚更いけないのだ。或る時、私が射精した瞬間、女性の顔面に嘔吐してしまつたのを最後に、私は女性との性行為もしくは性交渉をきつぱりと已めてしまつた……。
 また雪を除いての話だが、それに《女体》の醜悪さはどうしようもなかつた。彼女たちは彼女自身の《脳内》に棲む《自身の姿》をDietなどと称しながら自身の身体で体現する《快楽》が正しく私の嫌悪の元たる自同律の《快楽》だと知つてゐた筈だが、私の嘔吐を見ながらも、誰ひとりの女性も《脳内》の自分の具現化といふ実に不愉快きわまる事を已めはしなかつたのだ。結局彼女たちの理想の体型は痩せぎすの《男の身体》に《女性》の性的象徴、例へば乳房を、しかもそれが豊満だと尚更良いのだが、そんな《不自然な》体型を《女体》と称して私に見せ付けたのだ。これが醜悪でないならば何が醜悪なのか……。

…………
…………
 
 其処に雪が現れたのだ。