審問官第一章「喫茶店迄」
といふ雪に私は軽く頷き、満月が南天へ向かつて昇り行く奇妙に明るい夜空を見上げてから再び瞼を閉ぢたのであつた。果たせる哉、瞼裡の闇の虚空には相変はらず誰とも知れぬ面識の無い赤の他人の顔の輪郭がぼんやりと輝きを放つて浮かんでをり、私は最早声に為らざる嗚咽の如き奇妙奇天烈なその《声》にぢつと耳を澄ませるしかなかつたのであつた……。
――――ううううああああああああ~~。。
と、閉ぢられた瞼裡の闇の虚空に仄かに輝きながらその輪郭を浮かび上がらせた、私と全く面識のない赤の他人のその顔貌の持ち主の彼の人は、咆哮とも慟哭とも嗚咽とも歓喜の雄叫びとも、または断末魔の叫びとも解らぬたつた一声を心の底から思いつ切り叫びたいのであらうが、既に彼の人は恒常の《現在》といふ時間の流れに飛び乗つて、つまり、彼の人にとつては時間が全く流れぬ彼の世へと既に旅立つてしまつた故に、凝固したままぴくりとも動かぬ自身、つまり、「x0=1(x>0):0より大きい数の0乗は1」のⅹたる《主体》は 零乗たる《死》といふ現象により《完全なる一》たる《存在体》へと変化した故に最早その一声すら上げられぬまま《完全なる一》たる《存在体》として凝固してしまつた自身に対して観念せざるを得ぬ事を自覚させる永遠の黙考の中に沈潜してしまつた彼の人は、音若しくは声為らざる音未満の、
――――ううううああああああああ~~。。
といふ《声》を発してゐるのであつた。それを例へてみれば超新星爆発後にエツクス線など通常では観測されない電磁波などを発する星の死骸に似てゐた。
――――ううううああああああああ~~。。
瞼裡の闇の虚空に仄かに浮かび上がつた彼の人は、さて、《完全なる一》たる《存在体》に封印されてその頭蓋内の闇の虚空に何を思ひつつ彼岸へ旅立つたのだらうか。彼の人は死と共に《完全なる一》たる《存在体》に己が成り果(おほ)せた事を束の間でも自覚し、歓喜したのであらうか。多分、その瞬間に彼の人は全てを悟つた筈である。だが、それでも納得できない彼の人は、
――――ううううああああああああ~~。。
と《声》ならざる《声》を発せざるを得ぬ底知れぬ哀しさの中に封印され凝固してしまつたのであらうか。私は彼の人に、
――《存在》とは何ぞや?
などと、問ふてみたが、答へは全て、
――――ううううああああああああ~~。。
であつた。多分、彼の人は既に《完全なる一》たる《存在体》から堕して腐敗といふ《完全なる一》たる《存在体》の崩壊へと歩を進めてしまつたのであらう。
――――ううううああああああああ~~。。
は、彼の人の崩壊の《音》為らざる《音》なのかもしれない。
――――ううううああああああああ~~。。
と、不意に瞼裡の闇の虚空に仄かに浮かび上がつた彼の人の顔貌はゆらりゆらりと揺らぎ始め、すると私の視線の先に忽然とゆるりと時計回りに旋回する大渦の中心が現れたのであつた。
――これがもしや中有なのか?
私の瞼裡に仄かに浮かび上がつた彼の人の顔貌は、そこでゆるりとゆるりと渦の動きのままに旋回し始めたのであつた。
――ふう~う。
私は何故かそこで煙草を一服したのである。正直なところ、
――――ううううああああああああ~~。。
といふ《音》為らざるその《声》は悲痛極まりなく、私には煙草でも喫まなければ最早堪へられなかつたのであつた。
――――ううううああああああああ~~。。
私はゆつくりと瞼を開け、雪の顔を見ずにはゐられなかつたのである。雪は全てを既に了解してゐたのか、にこつと私に微笑み掛け、
――存分にその苦悩を味はひ尽くしなさい。それがあなたの安寧の為よ。
と、私に無言で語り掛けてゐたのであつた。
私は雪の微笑みを見てほつとしたのか、此方も軽く微笑み、再び瞼を閉ぢたのであつた。
――――ううううああああああああ~~。。
瞼裡に仄かに輝き浮かぶ瞑目した全く面識のない赤の他人の彼の人が、ゆるりと瞼裡全体が大渦を巻き始めたときに口元が仄かに微笑んだやうに見えたのは、もしかすると私の気の所為かもしれぬが、しかし、それを見た刹那、彼の人は地獄ではなく極楽への道を許されたのだと私は思つたのだ。
――それにしてもこの瞼裡の光景は私の脳が勝手に私に見せる幻視なのか……。
と、そんな疑問も浮かぶには浮かんだが、
――へつ、幻視でも何でもいいぢやないか。
と、更に私の意識は瞼裡の影の虚空に引き込まれて行くのであつた。さう、私もまた、瞼裡の渦にそれとは知らずに巻き込まれてゐたのであつた。
――――ううううああああああああ~~。。
それにしても中有は彼の人以外ゐないところで徹底的に孤独でなければならぬ場らしい。瞑目した彼の人は、さて、この孤独の中で何を思ふのか。既に死の直前には自身の人生全体が走馬灯の如く思ひ出された筈である。
――什麼生(そもさん)!
――説破!
と、彼の人は自己の内部に、否、魂の内部に沈潜しながら、その大いなる《死》の揺籃に揺られながら、既に《物体》と化した自己を離れ《存在自体》、若しくはカント曰く《物自体》と化して自問自答する底知れぬ黙考の黙考の黙考の深い闇の中に蹲りながら《存在》といふ得体の知れぬ何かを引つ摑んで物珍しげにまじまじと眺め味はひ、そして、その感触を魂全体で堪能してゐるのであらうか……。
――――ううううああああああああ~~。。
その証拠が瞼裡の影の闇の虚空に仄暗く浮かび上がる彼の人の顔貌の輪郭なのではないのか……と思ひながら私はまた煙草を、
――ふう~う。
と、喫むのであつた。すると、私は何やら名状し難い懊悩のやうな感覚に包まれたかと思ふと、源氏物語の世界の魂が憧(あくが)れ出るが如くに、私の自意識の一部が凄まじい苦痛と共に千切れるやうに瞼裡の闇の虚空に憧れ出たのである。私もまた其の刹那、
――――ううううああああああああ~~。。
と、呻き声に為らぬ声を私の内部で発したが、しかし、それは言ふなれば、私といふ《眼球体》――それはフランスの象徴主義の画家、オデイロン・ルドンの作品「眼は奇妙な気球のように無限に向かう」(一八八二年)のやうなものであつた筈である――がその闇の虚空へと飛翔を始めた不思議な不思議な不思議な感覚であつた。
何もかもがその闇の虚空では自在であつたのだ。私の思ふが儘、その《眼球体》と化した私は自在に虚空内を飛び回れるのである。それはそれは摩訶不思議な感覚であつた。
――――ううううああああああああ~~。。
《眼球体》と化した私は、瞑目して深い深い深い黙考の黙考の黙考の中に沈潜してしまつた彼の人にぴたりと寄り添ひ、今更ながらまじまじと彼の人の顔貌を凝視したのであつた……。
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作品名:審問官第一章「喫茶店迄」 作家名:積 緋露雪