審問官第一章「喫茶店迄」
――何て神秘的なんでしよう、月影は……。
とぽつりと呟いたのであつた。と不意に再び私の視界の周縁に光雲が一つ現れたかと思ふ間もなく、再びカルマン渦が二つに分裂する如く二つに分裂したその光雲は、視界の周縁で旋回を始めたのであつた。
私は雪を銀杏の街路樹の下に誘ひ、Pocket(ポケツト)から煙草を取り出して、先づは雪に勧めたのであつた。といふのも私は、雪が《男》に陵辱されてから、多分、煙草を喫むやうになつたと信じて全く疑はなかつたのである。実際、雪は私が差し出した国産煙草で最もNicotine(ニコチン)の含有量が強い煙草は頭がくらくらするからと言つて、自分の煙草を鞄から取り出して一本極極当然といつた自然な仕種で銜へたのである。
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君は自殺してしまつたフォーク歌手、西岡さんの「プカプカ」といふ名曲を知つてゐるかな。1971(S.46)年、西岡恭蔵さんの自作自演曲だが、Credit(クレヂツト)は、「象狂象 作詞/作曲 西岡恭蔵 唄 JASRAC作品コード072-1643-2」となつてゐるがね。
「プカプカ」の歌詞を調べればすぐに解かる事だが、私は雪の或る一面をこの「プカプカ」に出てくる女性に重ねてゐたのだ。想像するに難くないが、雪は普段は対人、特に《男》に対する無意識の恐怖心の所為で、例へば過呼吸等緊張の余り呼吸が乱れてゐる筈で、煙草の一服による深深とした深呼吸が雪を一時でも弛緩し呼吸を調へるのだ。さうでなければ雪があれ程純真無垢な微笑を浮かべられる筈はない。あの時期の雪にとつて煙草は生きるのに不可欠なものだつたのさ。
一方で私だが、私にとつて煙草はソクラテスが毒杯を飲み干して理不尽な死刑を受け入れた、或いはランボーの詩の中に「毒杯を呷(あふ)る」といふやうな一節があつた気がするが、私にとつて煙草を喫むのは《生》を実感する為には必要不可欠な《毒》なのだ。私には《生》を幾分でも蔑(ないがし)ろにする《毒》無しには一時も生きられない程、既にあの時から追ひ詰められてゐたのさ。《生きる屍》として何とか私が生きてゐたのは、何をおいても煙草があつたからなのさ。飯は食はずとも煙草さへ喫めればそれで満足だつたのだ。今も病院で私は強い煙草を喫んでゐる。最早終末期の私には何も禁じる物なんかありはしない。へつ。
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私は一本目の煙草を喫めるだけ喫めるぎりぎり迄しみつたらしく喫むと、間髪を容れず二本目を取り出し、一本目の燃えさしで二本目に火を点け、体軀全体に煙草の煙が行き渡るやうに深深と一服したのであつた。雪は私のその仕種を見ながら、
――うふ、あなたは本物のNicotine(ニコチン)中毒ね、うふ。
と微笑みながら、私が銜へた煙草の火の強弱の変化と私の表情を交互に凝視(みつ)めるのであつた。そんな雪を何とも愛ほしく思ひながら私は私で雪に微笑み返すのであつた。勿論、この時の煙草が格別美味かつたのは申す迄もない。
――ねえ、あなたをこれ迄生かして来たのはその煙草と、それと、うふ、お酒ね。それも日本酒ね、うふ。
と正に正鵠を射た事を雪が言つたので、私は更に微笑んで軽く頷いたのである。
――ふう~う。
とまた一服する。すると私に生気が宿る不思議な快感が私の体軀全体に走る。と、また
――ふう~う。
と一服する。その私の様が雪にはをかしくて仕様がないらしく、
――うふうふうふ。
と私を見ながら飛び切りの笑顔を見せるのであつた。すると、雪は偶然にも、
――煙草とお酒があなたの鎮静剤なのね。
と言つたのであつた。
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ねえ、君。君は「鎮静剤」といふ詩を知つてゐるかな。故・高田渡も歌つてゐたがね。
「鎮静剤」
マリー・ローランサン
退屈な女より もつと哀れなのは 悲しい女です。
悲しい女より もつと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より もつと哀れなのは 病気の女です。
病気の女より もつと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もつと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もつと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もつと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もつと哀れなのは 忘れられた女です。
訳:堀口大學
詩集「月下の一群」より
といふ詩なんだが。自分で言ふのもなんだが、私にぴつたりの詩だね。堀口大學の訳詩の《女》を《吾》に換へると、へつ、私自身の事だぜ、へつ。
…………
…………
――鎮静剤か……。
成程、雪の言ふ通り《死に至る病》に魅入られた私は《生》に帰属する為に一方で煙草といふ《毒》を喫んで《死》を心行く迄満喫する振りをしながらも私の内部に眠つてゐる臆病者の《吾》を無理矢理にでも揺り起こし、煙草を喫む度に《死》へと一歩近づくと思ふ事で《吾》が今生きてゐるといふ実感に直結してしまふこの倒錯した或る種の快感――これは自分でも苦笑するしかない私の悪癖なのだ――が途端に不快に変はるその瞬間の虚を衝いて、一瞬にして《死》に臆する《吾》に変容するのかもしれぬ或る種の《快楽》を味はふのであつた。さうして《死》を止揚して遮二無二《生》にしがみ付く臆病者の《吾》は煙草を喫むといふ事に対する悲哀をも煙草の煙と共に喫み込み、内心で、
――くつくつくつ。
と苦笑しながら、この《死》をこよなく愛しながらも《生》にしがみ付く臆病者の《吾》をせせら笑ひ侮蔑する事で《生》に留まる《吾》を許し、やつとの事で私はその《吾》を許容してゐるのかもしれぬのであつた。
――鎮静剤……。
これは多分、私が《吾》を受け入れる為の不愉快極まりない《苦痛》を鎮静する《麻酔薬》なのだ。《死》へ近づきつつ《死》を意識しながら、やつとの事で《生》を実感出来る、この既に全身が《麻痺》してしまつてゐる馬鹿者である私には、自虐が快楽なのかもしれぬ。ふつ、自身を蔑み罵る事でしか《吾》を発見出来ない私つて、ねえ、君、或る種、能天気な馬鹿者で、
――勝手にしろ!
と面罵したくなるどう仕様もない生き物だらう。へつへつへつ。何しろ私の究極の目標は自意識の壊死(えし)、つまりは《吾》の徹底的なる破壊、それに尽きるのさ。其処で、
――甘つたれるな! ちやんと生きてもいないくせに!
といふ君の罵倒が聞こえるが……、其処でだ、君に質問するよ。
――ちやんと生きるつてどういふ事だい?
後後解ると思ふが、私は普通の会社員の一生分の《労働》は既にしたぜ。ふつ、その所為で今は死を待つのみの身に堕してしまつたが……。それでもちやんと生きるといふ事は解らず仕舞ひだ。そもそも私には他の生物を食料として殺戮し、それを喰らひながら生を保つだけの《価値》があつたのだらうか、と自問自答せずにはいられぬのだ。私の結論を先に言ふと、その《価値》は徹頭徹尾私には無いといふ事に尽きるね。
――人身御供(ひとみごくう)。
私の望みは私が生きる為に絶命し私に喰はれた生き物達全てに対しての生贄としての人身御供なのかもしれないと今感じてゐるよ。
ねえ、君。君は胸を張つて、
――俺はちやんと生きてゐる!
作品名:審問官第一章「喫茶店迄」 作家名:積 緋露雪