審問官第一章「喫茶店迄」
外はAsphalt(アスフアルト)とConcrete(コンクリート)が発散する熱と人いきれの不快な暑気に満ちてゐて、其の中、淡い黄色を帯びた優しい白色の満月の月光が降り注ぐ、何とも名状し難い胸騒ぎを誘ふ摩訶不思議な世界へと変貌してゐた。東の夜空を見上げると美麗な満月がゆるりと昇つて、その満月は、暑気による陽炎に揺れてゐたが、私は『今夜は何人の人が誕生し、そして何人の人が亡くなるのか』等とぼんやりと生死について思ひを巡らせずにはゐられなかつたのである。満月の夜は必ずさうであつた。私にとつて月は生物の生死の間を揺れ動く弥次郎兵衛のやうな《存在》で、且、生物の生死を司るある種創造と破壊の神、シヴア神のやうな《存在》に思へたのであつた。
と、其の時ぽんと私の左肩を軽く叩き、
――お待たせ。
と、雪が声を掛けたのであつた。私は左を向いて雪の瞳を一瞥して不意に歩き出した途端、雪は私の右手首を今度は軽く握つて、
――もう、待つてよ、うふ。
と私に純真無垢な微笑を送つて寄越したのであつた。しかし、私は含羞の所為(せゐ)もあつて其のまま歩を進めたのである。
――もう、うふ。
と、雪は私の右側にぴたりと並んで歩き出したのであつた。
袖振り合ふも他生の縁。私は相変はらず伏目で歩いてゐたが、すると直ぐ様私の右手首を少し強めに握つた雪が私を握つた左手で私の歩行の進行を見事に操るので、私は内心、
――阿吽(あうん)の呼吸か……ふつ。
等と思ひながら密かに愉悦を感じざるを得なかつたのである。そして、私と雪が相並んで睦まじさうにゆつたりと二人の時間を味はひながら歩く姿を、私達の傍らを通り過ぎる人達が興味津津の好奇の目を向けてゐる。その多少悪意の籠つた視線の鋭き気配を感じながら、私は、この私達の傍らを好奇の目を向けて通り過ぎる彼らともまた他生の何処かで会つてゐる筈だと内心で哄笑しながら、
――さて、私との彼等の他生の縁(えにし)は人としてなのだらうか。
等と揶揄してみては更に内心で哄笑するのであつた。
それはまさしくゆつたりとした歩行であつた。
不意に雪を一瞥すると、雪は例の純真無垢な微笑を返すのである。雪もまたこのゆつたりとした歩行に何かしらの愉悦を感じてゐたのは間違ひない。
男女が二人相並んで歩くといふ行為は、しかし、よくよく考へてみると不思議極まりない、ある種奇蹟の出来事のやうな錯覚に陥る。偶然にも同時代に生を享け、偶然にも互ひに出会へる場所に居合はせ、互ひに何かしら惹かれあふ《もの》をお互ひに感じ、そして、互ひに見えない絆を確信し相並んで歩く……、これは互ひに出会ふべくて出会つてしまつた運命といふ必然の為せる業なのかもしれない……。
私は雪に微笑みかけ、雪もそれに応へて微笑み返す……。人の縁(えにし)とは誠に不思議である。
そして、ゆつたりとした歩行は続くのであつた。
と不意に私と他生の縁を持つた人間が、また、この瞬間に此の世を去つたのであらう、私の視界の周縁に光雲が出現し、そして、それはカルマン渦が発生するやうに二つに分かれ、私の視界全体でも左目に当たる部分では時計回りに、右目に当たる部分では反時計回りに、その二つに分かれた光雲が旋回し始めたのであつた。そのまま光雲が私の視界でぐるりと回つてゐたその時、雪を見ると、
――……また誰か亡くなつたのね……。あなたの目、何となく渦模様が浮かんでゐる気がするの……不思議ねえ……何となくあなたの異変が解つてしまふの。
私は軽く頷くと都会の人工の灯りが漏れ出て明るい夜空に目を向け、
――諸行無常。
といふ言葉を胸奥に呑み込むのであつた。すると、雪が、
――諸行無常。
と溜息混じりにぽつりと呟いたのである。私が振り返ると、雪は何とも名状し難い悲哀の籠もつた不思議な微笑を私に返したのであつた。
…………
…………
君も多分不思議に思つてゐるだらう。何故月の盈虚(えいきよ)がこれ程生物の生死、また、地震の生起に深く関はつてゐるのかを。人間で言へば新月と満月の日に出生する赤子と死に行く人間の数が他の日に比べて多いといふのは、私の思ふところ、仄かな仄かな仄かな重力の差異が人間の運命を大きく左右する、つまり、仮に《運命次元》なるものが《存在》し、重力の仄かな仄かな仄かな差異がその《運命次元》を発生させ、また消滅させる契機になつてゐるとすると、物理学者は重力の謎を考へれば考へる程迷路乃至は袋小路に入り込み、多分、生物の運命を左右し重力と相互作用する新たな粒子の《存在》を考へないと《世界》を説明出来ない筈のやうな気がするのだ。しかしだ、ねえ、君、
――へつ、重力は此の世の謎のまま人類の滅亡迄其の謎解きは出来ない。何故ならば、重力に関して主体は観測者では有り得ないのだ。
等と私は時時内心で哄笑して見るのだがね……。多分、重力は物理数学の域を超えた何やら占星術のやうな怪しげな、例へばその《値》を数式に表すと数式を書いた本人の運命が左右されるといつた超物理数学が構築出来なければ重力の謎は解けない気がする。
今のところアインシユタインがその道を開いた重力場の理論は主体とは無関係に研究が進んでゐる筈だが、また、人間は重力を簡単に一言で《重力》と片付けてゐるが、私が思ふに《重力》を構成するのは∞の量子、若しくは次元に違ひないと考へてゐる……。さうすると、当然これ迄主体は観測者といふ《特権的》な《存在》で《世界》乃至《宇宙》乃至《素粒子》を扱つて来たが、こと重力に関しては主体はその観測者といふ《特権》を剥奪されて重力といふ物理現象に飲み込まれ、翻弄される。つまり、《主体》がモルモツトのやうになる以外に重力の説明は不可能だと思ふのだ。
ねえ、君。それにしても月は不思議な《存在》だよね。ブレイクもアイルランドの詩人、イエイツも、月の盈虚を題材にOccult(オカルト)めいて幻想的な詩のやうな、思索書のやうなものを著してゐるが、月は人間を神秘に誘ふ《もの》なのかもしれないね。
多分、君も考へた事はあるだらう。もし月が《存在》してゐなかつたならば生物史はどうなつてゐたかを。まあ、それは人類が地球外の、例へば月や火星で生活するやうになれば重力乃至月がどれ程生物の生死に深く関はつてゐるのか明らかになる筈だから……。
ねえ、君、私も多分満月の日に死ぬ筈だから、左記の括弧に私の死亡した日時を記しておくれ。お願ひする。
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(追記。此の手記の作者は某年某月某日の満月の夜が明けた午前十時四十分四十秒に態態死の直前女性の看護師を病室に呼びにやりと笑つて死去する。)
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さて、何とも名状し難い悲哀の籠つた不思議な微笑を私に返した雪に私は優しく微笑みかけて、東の空に昇り行く満月を指差し、雪と二人、暫くその場に立ち止まつて、仄かに黄色を帯びた優しくも神秘的な月光を投げ掛ける満月を見続けてゐたのであつた。
――ねえ、月は生と死の懸け橋なのかしら……。
と雪が呟いたので私は軽く頷き雪と私の二人並んだ月光による影に目をやつた。雪もまた二人の影を見て、
作品名:審問官第一章「喫茶店迄」 作家名:積 緋露雪