審問官第一章「喫茶店迄」
――ネチヤーエフが『悪霊』のピヨートル・ヴエルホーヴエンスキーのModel(モデル)だとは知つてゐたけれども「革命家の教義問答」を読むのは今日初めて……。
――つまり、《自由》は冷徹非道性を必ず備へてゐなければ、つまり、それは《自由》として取り上げるに値しない……つまり、《自由》は、つまり、そもそも《残虐非道》なものに違ひない……と思ふけれども、つまり、君は、どう思ふ?
――さうね、《自由》《平等》《友愛》を掲げ、神をその玉座から引き摺り落とし《理性》が神の玉座に座つたフランス革命が好例ね。ブレイクもフランス革命を「The French Revolution」として著してゐるけれども、人間が《自由》のど真ん中に抛り出されると如何に《愚劣》か……さうよね、あなたの言ふ通りかもしれないわ……、人間は《自由》を持ち堪へられないのかもしれないわね。
――つまり、人間はどうあつても《下等動物》でしかなく、つまり、その《宿命》から遁れられない《大馬鹿者》であるといふ自覚がなければ、つまり、結局《縄張り》争ひの坩堝に自ら進んで身を投じ、つまり、最後は無惨な《殺し合ひ》に終始する《愚劣》な生き《もの》といふ事を自覚しなければ、つまり、人間にとつて《自由》は《他者を殺す自由》に摩(す)り替はつてしまふ外ない。つまり、レーニンがネチヤーエフを認め、つまり、「革命家の教義問答」をも認めてゐた事は有名な話だけれども、つまり、レーニンが最も自身の後継者にしてはならないとしてゐたスターリンがソヴイエトを引き継ぎ、つまり、《大粛清》を行つたのも、人間が《自由》に抛り出された末に辿り着く《宿命》、つまり、《自由》に堪へ切れずに人間内部に《自然発生》する《猜疑心》の虜になるといふ《宿命》、つまり、即ち《他者を殺す自由》が人間に最も相応しい《自由》といふ事を証明してゐる。つまり、人類史をみれば、つまり、《自由》が《他者を殺す自由》でしかない事例は枚挙に暇がない。つまり、《他者を殺す自由》以外は全て排除、つまり、《自由》は《自由》に《抹殺》されてしまふ。
――其処でだけど、ねえ、《自殺する自由》はどう?
――……。
――やつぱり、あなたも考へてゐるのね、《自殺する自由》を……。
――つまり、《何か》を《生かす》以外の《自殺》はそれが殉死であらうが、つまり、《自殺》は何であれ地獄行きさ。つまり、卵子と精子の例ぢやないけれど、つまり、《一》のみ生き延びさせるための《自死》以外、つまり、《自殺》は、つまり、地獄行きだ。
――どうして《自殺》は地獄行きなの?
――つまり、例へば、僕も君も、つまり、一つの受精卵から子宮内で十月十日の間、つまり、全生物史を辿るやうに全生物に変態した末に人間に為るが、つまり、その一つの受精卵の誕生の一方で、つまり、《自死》した数多の卵子と女性の体内で死滅した数多の精子の《怨念》を、つまり、《背負はされて》此の世に誕生した訳だが、つまり、《自殺》はその死滅した、つまり、卵子達と精子達が許さず、そして、つまり、生き残つた奴が《自由》に《自殺》した場合、つまり、此の世に誕生する事無く死滅させられた卵子達と精子達が、つまり、《自殺》した奴を地獄に送るのさ。更に《生者》が《自殺》する迄食料として喰らはれて来たこれまた数多の《他の生物達》の《怨念》も含めて、つまり、あらゆる《生者》は生まれた時から《死者》の数多の《怨念》を背負つてゐるから、つまり、《自殺の自由》を《生者》が行使した場合、つまり、地獄行きは《必然》なのさ。
――それでかしら、《他者》といふ、《吾》にとつては徹頭徹尾《超越》した《存在》が《存在》するのは……。つまりね、人間は独りでは《自由》を持ち堪へられない、故に《他者》が《存在》する、つてね、うふ。
――さう、そして、つまり、未だ出現されざる未出現の《未来人》を必ず《未来》に出現させる為にも、つまり、《現在》に《生》を享けた《もの》は、つまり、与へられた《生》を全うしなければならない。つまり、その為には人間は数多の《他者》と共に、つまり、何が何でも、つまり、それが仮令不快若しくは苦痛若しくは虫唾が走る事態であつても、つまり、《他》と共に生きねばならない。
――ねえ、さうすると、人間は《自由》とどう関はれば良いと思ふ?
――正直言ふと、つまり、僕にはそれは解らないんだよ。つまり、《自由》の正体が阿修羅の如き《自由》だとすると……、君はどう思ふ?
――さうね、人間は分を弁(わきま)えるしかないんぢやないかしら……、うふ、私にもこの《残虐非道》な阿修羅の如き《自由》に対しての人間の振舞ひ方は解らないわね、うふ。だつて、《自由》を自在に操れるのは《神様》以外在り得ないもの。ねえ、さうでしよ、うふ。
…………
…………
君もさう思ふだらうが、雪の微笑みは何時見ても純真無垢な美しさに満ち溢れてゐたが、この時の雪の微笑みも「これぞ純真無垢の典型!」といふやうな飛び切りの純真無垢な美しさに包まれてゐて私は心地良かつたのである……。
――断罪せよ。
例へば澱んだ溝川(どぶがは)の底に堆積した微生物の死骸等のへどろが腐敗して其処からMethane Gas(メタン・ガス)等がぷくりぷくりと水面に浮いてくるやうに、私の頭蓋内の深奥からぷくりぷくりと浮き上がつては私の胸奥で呟く者がゐたのは君もご存知の通りだ。
――お前自身をお前の手で断罪せよ。
これが其奴の口癖だつた。
多分、私が思ひ描いた私自身の《吾》といふ表象が時時刻刻と次次に私自身が脱皮するが如くに死んで行き、その表象の死屍累累たる遺骸が深海に降る海雪(Marine snow)のやうに私の頭蓋内の深奥に降り積もり、それがへどろとなつて腐敗Gasを発生させ、その気泡の如きものが私の意識内に浮かび上がつては破裂し、
――断罪せよ。
といふ自己告発の声になると私は勝手に考へてゐたが、雪との出会ひにより、私をしてそれを実行する時が直ぐ其処に迫つてゐる事を自覚しないわけにはいかなかつたのだ。今にして思へば、雪との出会ひは私が私自身を断罪するその《触媒》であつたのだらうとしか思へないのだつた……。
勿論、私の頭蓋内の深奥には深海生物の如き妄想の権化と化したGrotesque(グロテスク)な《異形の吾》達がうようよと棲息してゐた筈だが、其奴等も私が余りにも私自身の表象を創つては壊しを繰り返すので意識下に沈んで来た《吾》の表象どもの遺骸を喰らふのに倦み疲れ果てて仕舞つてゐたのは間違ひない……。
多分、其の時の私の頭蓋内の深奥には、私が創つた表象の死骸が堆く積み上がる一方だつたのだ。
――断罪せよ。お前がお前の手でお前自身を断罪せよ!
…………
…………
さて、私がSalonで読書会がもう始まつてゐるのでSalonに行かうと雪に言付けして其の古本屋を出やうとすると、雪が、
――一寸待つてて。二、三冊所望の本を買つてくるから。
と、言つたので私は軽く頷き其の古本屋の出口で待つ事にしたのであつた。
作品名:審問官第一章「喫茶店迄」 作家名:積 緋露雪