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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第一章「喫茶店迄」

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――さう、つまり、昆虫にも、つまり、《脳》はある。つまり、さうぢやなきや、つまり、此の世は、つまり、《昆虫天国》になる筈はない。それぢや、君、つまり、蟻は《思考》すると思ふかい? 
――えつ、それは、う~ん、解らないわ。
――つまり、蟻が、つまり、《思考》するかどうかは、つまり、これからの研究を待たなければならないんだが、つまり、仮に蟻が《思考》するとして、つまり、蟻は血縁の社会だが、つまり、さうすると、何故、つまり、蟻の社会には、つまり、働き蟻による《内訌》や《叛乱》や《謀反》が、つまり、起こらないのだらうかね。
――う~ん、……《自由》の問題かしら? 
――さうだね、つまり、《自由》の問題になるのかもしれないね。それに蟻の社会には、つまり、二割程だつたか、つまり、全く働かない蟻が、つまり、《存在》する。そこで、つまり、君、蟻の社会は途轍もなく《合理的》だよね。つまり、そこでだ、つまり、蟻のやうに途轍もなく《合理的》な、つまり、それも、つまり、《合理》をとことん突き詰めたやうな、つまり、《秩序》が《合理》そのものの《社会》で、つまり、《思考》する、つまり、《主体》の《自由》は、つまり、《許容》されると思ふかい? 
――さうね。働いてゐる蟻といふ《主体》にとつては《自由》は無きに等しいわね。しかし、社会的に《合理》をとことん突き詰めると、必ず何割かは無為な、うふ、多分、それは思索しているのかもしれないけれども、その無為な蟻がゐないのであれば、それは正に《合理》を、うふ、それは誤謬の《合理》に違ひない筈だわ。その誤謬の《合理》を《正しき合理》として《洗脳》された全きの《洗脳社会》だわ。そんな《合理的》な社会では《主体》が皆全て《洗脳》された《自由》無き、考へただけでもぞつとする程気色悪い、寒気がする社会ね。ねえ、さうすると、《秩序》はそもそも《不合理》だとして、う~ん、《秩序》が《不合理》であればある程、《主体》の《自由》は保証されるといふ事かしら? 
――つまり、それも《按配》だね。つまり、君、《渾沌》に《自由》はあると思ふかい? 
――うふ、《渾沌》には《自由》しかないわ。だつて《秩序》が無いんだもの。でも、《主体》はその《渾沌》といふ《自由》に潰されるわね。《破滅》のみね、《渾沌》にあるのは。そして、うふ、《渾沌》から《秩序》が生まれる……。うふ、パスカル風に言ふと「二つの〈渾沌〉の中間点が〈秩序〉」……ね。不思議ね。
――君、その陰陽魚太極図が、つまり、《渾沌》から《秩序》が、つまり、生まれる瞬間の《象徴》だよ。つまり、「人間は思考する葦である」。つまり、人間は《渾沌》も《秩序》も、つまり、《思考》出来る《自由》がある。だけども、つまり、この《自由》が、つまり、曲者なんだよ。ねえ、君、つまり、そもそも人間は、つまり、《自由》を持ち堪へるに十分な、つまり、《存在》だと思ふかい? 
――えつ、自由か……、それが私には解らないのよ。そうね、例へば、主君の死に殉じて自ら殉死する人人、一遍上人は禁じてゐたにも拘はらず一遍上人の死に殉じて入水(じゆすい)した僧や癩者達、そして《死の自由》の狂信者としてドストエフスキイの作品『悪霊』に登場するキリーロフ等等、いづれも《何か》の《殉死》だけれども……う~ん……《自由》の問題を考へると私はどうしても《死の自由》に行き着いちやうの……。どれも極端だけどもね。
 ここで私は雪に「一寸」といふ合図を右手で送つて、鞄から或るMemo帳を取り出して、バクーニンが草稿を書きネチヤーエフが補足したといはれてゐる「革命家の教義問答」を雪に読ませたのであつた。その内容はかうだ。
『革命家は既に死刑を宣告された者である。彼は個人的な興味も個人的な感情も持たない。彼自身の名さへ持たない。彼は唯一つの観念を持つてゐる。革命がそれである。彼はこの教養ある世界のあらゆる法律、あらゆる道徳律と断絶してゐる。彼がその世界の一部である如くに振舞ひながらその世界の中で生活するのは、唯只管(ひたすら)その世界をより的確に破壊するが為である。この世界の中の全ての事物は等しく彼にとつて憎むべきものでなければならない。彼は冷ややかでなければならない。彼は常に死ぬ用意をしてゐなければならない。彼は苦痛に耐へる訓練をしてゐなければならない。そして、自己内部のあらゆる感情を圧殺するため絶えず備へてゐなければならない。彼の目的を妨げる怖れのある時は名誉の感情さへ含めて、彼は唯その目的に貢献する者のみに友情を感じて差支へない。彼はより低い能力を持つた革命家達を唯消費すべきところの資本と看做さねばならない。もし同志が危難に陥つた時は、その運命は彼の有益性と、彼を救ふために必要な革命勢力の消費度によつて決定されねばならない。支配する側については、革命家はその構成員を、その個人の悪しき性質によつてではなく、革命の大義に害悪を齎す様様な度合に応じて、区分しなければならない。最も危険なものは直ちに除かれねばならない。けれども、そこには次のやうな他の部類に属する者がゐる。その或る者は、放任されたままでゐる限り、怖るべき所業を敢行し民衆を昂奮せしめる事によつて革命の利益を促進し、また或る者は、恐喝と脅迫によつて大義の目的に役に立ち利用され得るのである。自由主義者の部門は、彼等の方針に一致するかの如く彼等を信じしめ、それによつて、こちらの方針をもまた容れる事を妥協せしめながら、彼等を利用せねばならない。他の急進主義者については、多くの場合彼等を完全に破滅せしめる行動に駆り立てねばならない。そして、稀な場合、それが彼等を革命家に仕立てあげるのである。革命家の唯一の目標は手を使う労働者達の自由と幸福であるが、この事態が唯全破壊的な、全人民の革命によつてのみ成し遂げられる事を考慮して、革命家は全力を傾倒して人民がついに忍耐心を失うに至るだらうところの全ての悪行を推し進めなければならない。ロシア人は、西欧諸国において一般化してゐる革命の古典的な形態、つまり、財産に対し、また、所謂文明と道徳による伝統的な社会秩序に対して常に足踏みし、そして国家を唯別の国家によつて置き換へてゐるところの革命の古典的形態を断乎として拒絶しなければならない。ロシアの革命家は国家を、その全伝統、全制度、全階級とともに、根こそぎに廃絶しなければならない。かかるが故に、革命を醸成するGroup(グループ)は人民に対して如何なる政治的組織をも上から押し付けようと試みないであらう。未来社会の組織は、疑ひもなく、人民自体の中から生まれる。吾吾の事業は唯恐怖すべき、完璧な、全般的な、無慈悲な破壊を為す事にある。そして、この目的の為、大衆の頑固に反抗する諸部分を結合せしめるばかりでなく、ロシアにおける唯一の真実な革命家であるところの法の保護を失へる全ての者達の不屈な集団を団結せしめばならない』(埴谷雄高著「埴谷雄高ドストエフスキイ全論集」〈講談社〉参照)

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――どう? つまり、これもまた《自由》の一形態だが……。