蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ
――ならばだ、《吾》が「《吾存在》の法則」のみに終始すると《吾》=宇宙は未来永劫《他》=宇宙の《存在》を知らずにゐる可能性もあるといふ事だね?
――さうさ。むしろその可能性の方が大きいのぢやないかな。実際、此の世でも《吾》が未来永劫に亙つて見知らぬ《他》は厳然と数多《存在》するぢやないか。
――それはその通りに違ひないが、しかし、《吾》と未来永劫出会ふ事なく、一見《吾》とは無関係に思へるその《他》の《存在》、換言すれば《存在》の因果律無くしては《吾》は決して此の世に出現出来ないとすれば、《吾》は必ず、それが如何なる《もの》にせよ、その《もの》たる《他》と何らかの関係を持つてしまふと考へられぬかね?
――へつ、つまり、此の宇宙も数多《存在》するであらう宇宙の一つに過ぎず、換言すれば、数多の宇宙が《存在》するMultiverseたる「大宇宙」のほんの一粒の砂粒程度の塵芥にも等しい局所の《存在》に過ぎぬと?
――へつへつへつ、その「大宇宙」もまた数多《存在》するつてか――。
――つまり、《吾》と《他》とは共に自己増殖せずにはゐられぬFractal(フラクタル)な関係性にあると?
――多分だが、さうに違ひない。しかし、「《吾存在》の法則」と「《他存在》の法則」は関数の関係にはあるが、全く別の《もの》と想定した方が《自然》だぜ。
――何故かね?
――ふつ、唯、そんな気がするだけさ。
――そんな気がするだけ?
――さうさ。例へば私と《他人》は全く同じ種たる人間でありながら、《吾》にとつては超越した《存在》としてその《他人》を看做す外に、《吾》は一時も《他人》を承認出来ぬではないか! 而もだ、私が未来永劫見知らぬ未知の《他人》は数多《存在》するといふのも此の世の有様として厳然とした事実だぜ。
――逆に尋ねるが、《吾》が仮に《他》と出会つた場合、それはStarburst(スターバースト)の如く《吾》にも《他》にもどちらにも数多の何かが生成され、ちえつ、それは爆発的に誕生すると言つた方がいいのかな、まあ、いづれにせよ、《吾》と《他》と出会ひ、つまりは《吾》=宇宙と《他》=宇宙の衝突は、数多の《吾》たる何かと、数多の《他》たる何かを誕生させてしまふとすると、それは寧ろ男女の性交に近しい何かだと思ふのだが、君はどう思ふ?
――それは銀河同士の衝突を思つての君の妄想だらうが、しかし、此の世が《存在》するのであれば、彼の世もまた《存在》せねば、《存在》は爆発的になんぞ誕生はしなかつたに違ひないと思ふが、つまり、彼方此方で「くくくきききいんんんんん~~」などといふ時空間の《ざわめき》は起こる筈はない。
――へつ、《吾》=宇宙が《吾》を呑み込んだげつぷだらう、その《ざわめき》は?
――さうさ。《吾》=宇宙が《他=吾》若しくは《反=吾》、つまり、《吾ならざる吾》を呑み込まざるを得ぬ悲哀に満ちた溜息にも似たげつぷさ。
――くくくききききいんんんんん。
と、再び彼の耳を劈く断末魔の如き不快で耳障りな時空間の《ざわめき》が彼を全的に呑み込んだのであつた。そして、彼は一瞬息を詰まらせ、思はず喘ぎ声を
――あつは。
と漏らしてしまひ、《吾》ながら可笑しくて仕様がなかつたのであつた。
――ぷふい。
…………
…………
――何がをかしい?
――いや何ね、《吾》と《他》の来し方行く末を思ふと、どうも俺にはをかしくて仕様がないのさ。
――膨脹する此の《吾》=宇宙が《他》を餌にし、また、その《他》を消化する消化器官といふ《他》へ通じる穴凹を持たざるを得ぬ宿業にあるならばだ、そして、此の《吾》が数多の《他》に囲まれて《存在》してゐるに違ひないとすると、此の《吾》といふ《存在》のその不思議は、へつ、《吾》といふ《存在》もまた《他》に喰はれる宿命にあるをかしさは、最早嗤ふしかないぢやないか。
――あつは、さうだ、《吾》が《他》に喰はれる! さうやつて《吾》と《他》は輪廻する。
――つまり、《吾》が《他》を喰らへば、《他》は《吾》に消化され、《物自体》が露になるかもしれぬといふ事だらう?
――《吾》もまた然りだ。しかし、それは《物自体》でなく、《存在》の原質さ。
――《存在》の原質?
――さう。ばらばらに分解された《存在》の原質には勿論自意識なる《もの》がある筈だが、そのばらばらの《存在》の原質が何かの統一体へと多細胞生物的な若しくは有機的な《存在》へと進化すると、その総体をもつてして「俺は俺だ!」との叫び声、否、羊水にたゆたつてゐた胎児が産道を通り、つまり、《他》へ通づる穴凹を通つて生まれ出た赤子が、臍の緒を切られ最初に発するその泣き声こそが、「俺は俺だ!」と、朧に自覚させられる契機になるのさ。
――つまり、それは、此の時空間の彼方此方で発せられる耳を劈く《ざわめき》こそが「俺は俺だ!」と朧に自覚させられるその契機になつてしまふといふ事か?
――だから、げつぷなのさ。《吾》はげつぷを発する事で朧に《吾》でしかないといふ宿業を自覚し、ちえつ、《吾》は《吾》である事を受容するのさ。
――受容するからこそ《吾》がげつぷを発する、否、発する事が可能ならばだ、《吾》が《吾》にぴたりと重なる自同律は、《吾》における泡沫の夢に過ぎぬぢやないかね? つまり、《吾》は《吾》でなく、そして、《他》は《他》でない。
――さう。全《存在》が己の事を自己同一させる事を拒否するのが此の世の摂理だとすると、へつ、《存在》とはそもそもからして悲哀を背負つた此の世の皮肉、つまり、それは特異点の《存在》を暗示して已まない何かの《もの》に違ひない筈だ――。
――《存在》そのものが、そもそも矛盾してゐるぢやないか!
――だから《存在》は特異点を暗示して已まないのさ。
――へつ、矛盾=特異点? それは余りにも安易過ぎやしないかね?
――特異点を見出してしまつた時点で、既に、特異点は此の世に《存在》し、その特異点の面(をもて)として《存在》が《存在》してゐるとすると?
――逆に尋ねるが、さうすると、無と無限の境は何処にある?
――これまた、逆に尋ねるが、それが詰まるところ主体の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する表象にすら為り切れぬ泡沫の夢達だとすると?
――ぶはつ。
――をかしければ嗤ふがいいさ。しかし、《存在》は、既に、ちえつ、「先験的」に矛盾した《存在》を問ふてしまふ《存在》でしかないといふTautology(トートロジー)を含有してゐる以上、《存在》は《存在》する事で既に特異点を暗示しちまふのさ。
――さうすると、かう考へて良いのかね? つまり、《存在》は無と無限の裂け目を跨ぎ果(をほ)せると?
――現にお前は《存在》してゐるだらう?
――くきいんんんんん――。
と、再び彼は耳を劈く不快な《ざわめき》に包囲されるのであつた。
…………
…………
――しかし、《存在》は己の《存在》に露程にも確信が持てぬときてる。その証左がこの不愉快極まりない《ざわめき》さ。
――ふつふつふつ。《存在》が己の《存在》に確信が持てぬのは当然と言へば当然だらう。何せ《存在》は無と無限の裂け目を跨ぎ果す特異点の仮初の面なんだから。
作品名:蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ 作家名:積 緋露雪