蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ
――ああ、さうさ。俺の独断に過ぎぬ。しかし、此の世が去来現としてあるならば、現在のみが特異な現象でなければ《存在》は特異点をその内部に内包出来ぬ筈なのだ。つまり、《吾》の頭蓋内の闇たる場を《五蘊場》と名付けるが、その《五蘊場》に明滅する表象群は、元来、因果律が壊れて表象されるだらう?
――これは愚問だが、0.9999999999……の小数点以下の数字、9が、例へば∞回続く0.999999999999……は、ひょいっと《一》に跳躍する不思議を、不思議とは思はずに吾等は何の疑念も抱かずに《一》を簡単に《一》と呼んでゐるが、しかし、その実、誰も《零》と《一》との間にも∞個の陥穽が彼方此方に口を開けてゐることすら気付かずに、否、気付かぬ振りをしながら、へっ、《一》=《一》などといふ嘘っ八を恰も真実かの如くに扱ふ事に慣れてしまった故に、へっ、《吾》たる《存在》は、それが何であれ、《吾》たる《存在》にばっくりと口を開けた風穴の如き穴凹を、己の内部に、ちぇっ、何気無しに不意にばっくりと口を開けた様を見出してしまふと、哀しい哉、《吾》が内心、しくしくと哀しい涙を流しながら《吾》を愛撫しようとするのだが、しかし、《吾》の内部に開いた穴凹は如何ともし難く、そして、《吾》は如何仕様もなく苦悶に身を捩りつつ、《吾》は、唯、茫然と此の世に佇立する外ない《存在》だと嫌といふ程に味はひ尽くさねばならぬ宿命にあるとしたならば、さて、お前はそんな《吾》を何とする?
――くっくっくっくっ。別に何ともしないがね。ちぇっ、下らぬ! お前は俺に『此の宿命を呪ひ給へ』なんぞとほざかせようとしてゐるやうだが、そんな小細工には乗らないぜ。
――それでもお前は《吾》が《吾》でしかない事に堪へ得るといふのかね?
――さうさ。《存在》は此の世に《存在》しちまった以上、数多ある此の世の矛盾を死ぬ迄、ちぇっ、死んでも尚かな、まあ、どちらにせよだ、その数多の矛盾を死ぬ迄ずっと噛み締めなければならぬのさ。くっくっくっくっ。
と、その時、《そいつ》はぎょろりと私を睨み付け、更にかう続けたのであった。
――お前にはその覚悟があるかね? くっくっくっくっ。
――覚悟がなくても《吾》が此の世に《存在》した以上、覚悟せねばならぬのだらうが、へっ。
――しかし、《吾》たる《存在》は、それが何であれ、《吾》自体がそもそも夢幻(むげん)空(くう)花(げ)な《もの》に等しい事に愕然とし、そして、誰しも《吾》に躓く外ないといふ何たる皮肉! 此奴をお前は何とする?
――ちぇっ、何とするもしないも、それは、つまり、色即是空、空即是色、若しくは諸行無常なる《存在》の哀しみとして、《吾》たる《存在》は、それが何であれ甘受せねばならぬのではないのかね?
――くっくっくっくっ。《存在》の哀しみと来たもんだ。《吾》とはつくづく哀れな《存在》なんだな、ふっふっふっ。
と、《そいつ》はさう言ひ放つと、あらぬ方向へ目を向けて、其処にあるに違ひない《そいつ》にしか解からぬであらう虚空を凝視し始めたやうであった。そして、私はといふと、これまた瞼を開けて、此の世といふ名の世界を改めて眺め回してみるのであった。
すると、不意に《そいつ》は、
――はくしょん!
と、くさめを放ったのであった。
――へっへっへっ。風邪でも引いたのかね?
――何奴かが俺を睨みやがったのさ。
――それでくさめを?
――さうさ。お前以外にこの俺を睨み付ける《存在》がゐるとは思ひもよらなかったからな。
――しかし、俺にはお前以外何《もの》も見えやしないぜ。
――当然だらうが! お前の視覚は此の世を見るべく定められてゐるからね、くっくっくっ。
――するとお前は何処の虚空かは知らぬが、お前にしか見えぬその虚空で誰とも、若しくは何《もの》とも知れぬ《存在》の幽霊、若しくは亡霊、へっ、この言ひ方は可笑しいがね、その《存在》の幽霊、若しくは亡霊でも見ちまったといふ事かね?
――ご名答だ、くっくっくっくっ。彼の世の何《もの》かが俺を睨み付けたのさ。
――つまり、それは、お前にのみ見えてしまふのであらうその虚空に棲む幽霊、若しくは亡霊共が、彼の世といふ処で、つまり、幽霊若しくは亡霊共が、お前の噂で持ち切りといふ事ぢゃないかね?
――へっ、誰かが俺の噂をしてゐるから俺が「はくしょん!」とくさめをしたと、お前は如何あっても看做したいらしいが、さうは問屋が卸さないぜ。お前が考へてゐる事と逆の事が今起きたのさ。つまり、俺の頭蓋内の闇を何《もの》かがすっと通り抜けたのさ。
――それを何《もの》かの《存在》の幽霊、若しくは亡霊と言ふのではないのかね?
――へっ、さう看做したければさう看做せばいいだけのことさ、ちぇっ、下らぬ。
――ふっ、しかしだ、この頭蓋内といふ闇たる《五蘊場》は、脳といふ構造をしてゐるとして、その脳が己の内部をすうっと通り抜けるそのぞっとする皮膚感覚みたいな《もの》が、脳にさへある筈だがね。それに加えへて、この頭蓋内の闇たる《五蘊場》は気配には余りにも敏感すぎるぢゃないか。
――へっ、それはお前だけの事だらう?
――馬鹿が! お前こそその己の頭蓋内をすうっと通り抜けたぞわぞわっとする感覚をいの一番に感じた筈だぜ。
――ふむ。
――ちぇっ、『ふむ』だと! 己を震撼させたその気配をお前は出来るならばなかった事として揉み消したいだけだ。つまり、お前はお前から、《零》も《∞》も奇蹟的に併せ呑む特異点たるお前のその悍ましき《異形の吾》から目を背けたいだけぢゃないのかね? くっくっくっくっ。
――しかし、それで構はぬのではないかね?
――ちぇっ、それではお前がお前自身の《存在》に、有無も言はずに堪へられる道理がなからうが!
――ふっふっふっふっ。その証拠がお前の《存在》か、ちぇっ。
と、私がさう言ふと再び《そいつ》はぎろりと此方を睨み付けては、
――くっくっくっくっ。
と、何ともいやらしい嗤ひを発するのであった。
――お前に俺が見えてしまふ不思議な事態に対してもお前は慌てふためく己を只管己から隠し果せたいだけなのさ。
――それで?
――そして、お前は己の所在無さにたじろいでゐる。
――それで?
――そして、お前は己が果たして、此の《零》と《∞》の間を揺れ動くそのこれ以上ない大揺れする《吾》を認識しちまって、ふっ、お前自身が何を隠さう一番動揺してゐる。
――それで?
――そして、お前は卒倒する寸前さ。
――ふっふっふっふっ。俺はそんなに軟ではないぜ。ちゃんと、己が《零》と《∞》を併せ呑む外ない特異点としてしか此の世での《存在》が、へっ、それを譬へれば《神》の摂理に従ってゐるに過ぎぬとすれば、《吾》が特異点以外で此の世に《存在》することは、《神》の摂理によって決して許されぬ事ぐらゐ端から「先験的」に若しくは生きるべき《本能》として既に知っちまってゐる。
――そして、諦念もだらう。
――さうさ。その諦念こそ此の世に《存在》するべく定められた《もの》が必ず獲得せねばならぬ《生》の為の生きる術さ。
作品名:蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ 作家名:積 緋露雪