蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ
――そんな事は如何でもよからうが。ちぇっ、それよりも数学が《存在》してしまふ事が前宇宙の名残りだと思はぬか?
――それはまた何故にさう言へるのかね?
――くっくっくっ。唯、何となくそんな気がするだけさ。ちぇっ、お前は「先験的」なる事に《存在》が全く歯が立たないのは癪に障らぬのかね?
――へっ、土台そんなこったらうと思ったぜ。「先験的」なることは勘の《存在》で巧く説明出来るかもしれぬが、しかし、第六感若しくは直感は信じられる《もの》、ちぇっ、土台、直感が《存在》の最初の砦でありまた同時に最後の砦であるならばだ、《存在》は直感に、つまり、「先験的」なる《もの》に従順たれといふことで、《吾》は《吾》といふ呪縛から遁れられる――のか?
――これは同性でも構はぬが、つまり、異性に惚れる時は如何かね?
――ふむ。惚れちまったものは如何仕様もないのは確かだが、それにしても数多ゐる異性の中からたった一人の異性に惚れちまふ不思議、つまり、存在論的に見て惚れる事は面白い対象なのは間違ひない。
――さて、惚れちまふ事は偶然かね?
――不慮の事故死と共にそれは偶然の出来事さ。
――くっくっくっ。何を嘯く? 本当のところは必然、即ち運命若しくは宿命と言ひたいのだらう?
――ちぇっ、お見通しか――。だが、主体たる《吾》は何事にも自由、つまり、あらゆる時点に偶然と呼べる余地を残しておきたいのもまた《吾》の習性さ。
――くっくっくっ。其処でだ、お前は自由かね?
――ふむ。それが解からぬのだ。
――つまり、自由の余地を残しておきたいと言ひ条、その実は惚れたのを運命等の必然に帰したいのが本音ぢゃないかね?
――さう。惚れてしまふ不思議を引き受けるのに運命的な出会ひ等と称して必然の《もの》として引き受けたいのが本音さ。
――くっくっくっ。しかし、主体たる《吾》は何時でも自由でありたい。くっくっくっ。つくづく《存在》とは矛盾に満ちた《もの》だぜ。
と、其処で《そいつ》は不意に私の瞼裡の薄っぺらな闇の中に姿を消したのであった。それでも私は尚も閉ぢられた瞼裡の闇をじっと凝視し続けるのであった。
――さて、偶然的な出会ひと運命的な出会ひの違ひは、徹底的に主観の問題に違ひない。否、主体たる《吾》は強欲故に全てを主観の裁量に帰したいのだ。へっ、性交時若しくは食事時若しくは睡眠時の忘我の状態に《吾》が陥らうが、それでも主体たる《吾》は《吾》であること、つまり、《吾》=《吾》=《他》といふ恍惚の中でも絶えず《吾》を追ひ求め、「俺は俺だ!」と叫びたいに違ひない。性交に貪るように耽るのも、何《もの》にも目も呉れずに只管貪り喰ふ事に夢中な食事時も、必ず《吾》なる《もの》が全肯定され《存在》する睡眠時の夢の中でも、《吾》は《吾》を夢中で追ひ求めざるを得ぬのだ。さうして、性交後の、食事後の、そして睡眠から覚醒した時の虚脱感の中で、《吾》は《吾》の《存在》を味はひ尽くさねばならぬのだ。そして、それは偶然と必然の両様が宙づりにされた両様の《存在》する未決の状態、ちぇっ、つまり、《吾》は自由度が只管確保される可能性の中に《吾》をぶち込めておきたいに違ひない。それは、しかし、愚劣極まりない打算が働いてゐるだけではないか! ちぇっ、主体たる《吾》は何時も因果律が壊れた可能性と言ふ耳に心地よく響く《存在》のMoratorium(モラトリアム)に唯留まりたいだけぢゃないのか。可能性と言へば聞こえはいいが、それは単に可能性が全て閉ざされその本性が露になった《現実》からの遁走に過ぎぬのではないか!
と、さう私が吐き捨てると同時に《そいつ》は完全に私の瞼裡の薄っぺらな闇の中にその気配を晦(くら)まし、はたと消えたのであった。
――姑息な!
と思ひながら、私はゆっくりと瞼を開けて世界を眺めるのであった。
――ほら、其処だ!
私はぎろりと眼球を動かし、私の視界の縁に《そいつ》がゐるのを確認すると、
――何のつもりかね?
と、私が問ふと《そいつ》がかうぬかしよるのであった。
――いや、何ね、俺も∞に重なってみたくなったのさ。
――∞?
――それは、つまり、俺の瞼裡には∞はないと?
――瞼裡の薄っぺらな闇も闇には違ひなく、へっ、詰まる所、闇といふ闇には零と∞の区別はないのさ。
――だから、また、俺の視界の縁をうろちょろし始めたと?
――ふっふっふっ。何せ此の世の裂け目としてお前といふ《存在》は目を開けたのだから、つまり、お前は此の世に誕生してその目玉を開けて世界を見てしまったのだから、零と∞は、無限を内包し、既に開かれてしまったのさ。くっくっくっ。
――つまり、目玉を開けることが即ち世界を裂く行為に等しいといふ事かね?
――さうさ。盲た人には誠に誠に申し訳ないが、眼球を此の世で開けるといふ事は、世界に《穴》を開ける事に違ひないからさ。
――《穴》? それは《零の穴》でも《∞の穴》とも違ふ《穴》かね?
――つまり、その眼球といふ《穴》は、《闇》として重なり合ってゐた零と∞を仮初にも分かつ此の世に開いた《零の穴》、否、《一の穴》とでも言ふべきかな。
――へっ、《一の穴》? そもそも《一》に《穴》はあるのかね?
――仮初にも《一の穴》は仮象は出来る筈だ。
――例へば?
――例へば、此の世が複素数ならば、当然、此の世に《存在》する森羅万象は、己を《一》として自覚しながらも、その《一》は《零》にも《∞》にも仮象出来てしまふのさ。
――つまり、それは《存在》が特異点を内包してゐるからだらう?
――さう。距離が《存在》しちまふが故に《主体》の同心円状に拡がる過去世若しくは過去世に《目的》がいったん生じると未来世に変貌する不可思議な世界の中で、唯、《吾》を《吾》と自覚した《存在》のみは未来永劫に亙って現在に独り取り残されてあるのみ――。
――さうすると、現在とはそもそも世界=内においては特異な現象といふ事になるが、さう看做してしまって良いものか……?
――ふっ。現在が此の世に《存在》する事がそもそも異常なのさ。
――異常? ふむ。現在は去来(こらい)現(げん)の中では異常な事象か――ね……。
――お前はすると現在を何だと思ってゐたのかね?
――現在が此の世の度量衡だとばかり考へてゐたが、さて、その現在のみが去来現において特異な事象であるならば、ずばり聞くが、実存とはそもそも何の事かね?
――へっ、《吾》の泡沫の夢に過ぎぬ《もの》さ。
――泡沫の夢? すると、実存とは《吾》の勘違ひに過ぎぬと?
――《吾》を《一》の《もの》と規定しなければ、《吾》は《吾》といふ《存在》に一時も堪へられなかったのさ。そして、これからも《吾》は《吾》を恰も《一》の《もの》であるかのやうに取り扱ふ以外に、最早、為す術がない! しかしだ、《吾》が《存在》である以上、《吾》は特異点を何としても内包せずば、これまた一時も《存在》出来ぬのだ。
――それはお前の単なる独断でしかないのではないかね?
作品名:蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ 作家名:積 緋露雪