蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ
それは唯私が私に対して無防備だったに過ぎぬのかもしれぬが、しかし、私は私で《そいつ》と対峙することを嫌っていたかと言へば、実のところその反対であったのである。今にして思へば私は《そいつ》と四六時中対面してゐたかったのが実際のところであったのだ。しかし、暫く《そいつ》は私の不意を衝かない限り現はれることはなかったのである。もしかすると《そいつ》は私を吃驚させて独り面白がりたかったのかもしれぬが、私は不意に《そいつ》が現はれても一向に驚かなかったのであった。つまり、それは私が《そいつ》に恋ひ焦がれてゐた証左でしかないのである。
私がてんで驚かないので《そいつ》が私の周りをうろちょろすることは或る時期を境にぴたりと已んだが、しかし、始末が悪いことに何と《そいつ》は私の瞼裡に棲みついてしまったのであった。つまり、裏を返せば私は瞼を閉ぢさへすれば《そいつ》のにたりと笑ったいやらしい顔と対面出来るやうになったのである。
――また笑ってゐやがる!
――へっ、お前が笑ってゐるからさ。このNarcist(ナルシスト)めが!
――ふっふっふっ。それはお前だろ、俺の瞼裡の闇に棲みつきやがってさ。
――だって「私」を映す鏡は闇以外あり得ないだらう。
――そもそも「私とは何ぞや?」
――それは「私」以外のものに片足を突っ込んだ「私」でない何かさ。
――「私」でない何かが「私」?
――さう。その事を一気に飛躍させて汎用化すれば《存在》は《存在》以外のものに片足を突っ込んだ《存在》でない何かだ。
――ぷふぃ。《存在》でない何かが《存在》? 矛盾してゐるぜ!
――へっへっへっ。論理は矛盾を内包出来ぬ限りその論理は不合理だといふ事は経験上自明のことだがね?
――自明の事?
――さう。矛盾は論理にとって宝の山さ。
――ふっ。矛盾がなければお前が俺の瞼裡に棲み付く必然性はないか……。ふっふっ。
――さて、ところで、人間が矛盾と言ってゐるものが矛盾であることを人間はどうやって証明するのだらう?
――矛盾であることを証明するだと? 矛盾は論理破綻すれば既に矛盾だらう?
――さう……。矛盾は論理破綻だ。しかし、論理はどうあっても矛盾する宿命にある。
――つまり、それは人間が無知であると言ひたいのかね?
――いや、無知とまでは言はないが、それはもしかすると真実かもしれない不確実性を含有した何かさ。
――へっ、にたりと笑ひやがって!
《そいつ》は私の瞼裡でいやらしくにたりと笑ひ、しかし、その眼光は尚更鋭き輝きを放ちながら私を睥睨するのであった。
それにしても《そいつ》の相貌は何と醜いのであらうか。つまり、「私」は何と醜いのであらうか――。
――つまり推定無罪と言ふ事だ――。
――推定無罪?
――さう。矛盾が矛盾であること論理破綻は推定《真実》と言ふ事さ。
――ふむ。それで「矛盾が論理にとって宝の山」と言った訳か……。そして論理は其処に矛盾を内包してゐなければ、その論理は不合理であると?
――さうさ。矛盾を内包してゐない論理は論理にはなり得ぬ論理的《がらくた》に等しい代物さ。
――論理的《がらくた》か……。しかし、論理は矛盾を内包出来る程寛容なのであらうか?
――へっへっへっ、寛容でなければその論理は下らない代物だと即断しちまった方がいい!
――つまり、論理的に正しいことが即ち不合理であると言ふ事か?
――論理が矛盾を孕んでゐると、つまり、それは今のところは論理的には破綻を来した《論理的底無し沼》にしか見えないが、しかしだ、論理に《論理的底無し沼》といふ《深淵》がなければ、人間の知は《平面的》な知に終始する外ないぜ。
――《平面的》知?
――簡単に言へば、矛盾無き論理は《平面》の紙上に書かれた言の葉に過ぎず、その言の葉に《昇華》はない。論理は論理を言霊に《昇華》出来なければそんな論理は論理の端くれにも置けぬ!
――しかしだ、それだと原理主義の台頭を認めることにならないか?
――原理主義が唱へる論理に《矛盾》は内包されてゐるのかい?
――傍から見れば原理主義は矛盾だらけなのに、原理主義者の頭蓋内にはこれっぽっちも《矛盾》は存在しないか――。つまり、《矛盾》は狂信の安全弁になり得ると言ふ事か。……しかし、《矛盾》は《渾沌》を呼ばないのかい?
――《渾沌》! 大いに結構じゃないか!
――ちぇっ、またいやらしい顔でにたりと笑ひやがって!
《そいつ》がにたりと笑ふ顔は何時見てもおぞましいものであった。即ち、「私」自体がおぞましい存在でしかなかったのである。
――「不合理故に吾信ず」といふ箴言は知ってゐるな?
――ああ、勿論。
――論理とは元来不合理な、或るひは理不尽なものさ。否、論理は不合理でなければ、若しくは理不尽でなければ、それは論理として認められはしない。
――その言ひ種はさっきと《矛盾》してゐるぜ。ふっふっふっ。
――ふっ、だから論理は《矛盾》を内包してゐなければそれは論理として認められぬと言ってゐるではないか。
――その論理の正否を判断する基準は何なのだらうか?
――ちぇっ、《自然》に決まっておらうが!
――《自然》?
《そいつ》の鋭き眼光は更に更に更にその鋭さを益して私を睨みつけるのであった。
――《自然》以外に人間、否、《主体》の判断基準が何処にある?
――信仰は?
――ちぇっ、神の問題か……。
――ふっふっふっ、神は神であることに懊悩してゐると思ふかい?
――勿論、神だって神であることに懊悩してゐる。神すらも《存在》からは遁れやしない!
――すると、神もまた底無しの《存在》の《深淵》を覗き込んでゐると?
――へっ、神は神なる故にその《深淵》の底の底の底に棲んでゐるのさ。
――はっはっはっはっ。
それにしても《そいつ》の笑顔は悍(おぞ)ましい限りである。つまり、私といふ《存在》がそもそも悍ましいものであったのだ。
《そいつ》は更にその鋭き眼光を光らせ私の瞼裡で私をぎろりと睨み付けるのであった。
――ならば、神は神なるが故に《永劫の懊悩》を背負ってゐるといふのか?
――勿論さ。神たるもの《永劫の懊悩》を背負へなくて如何する?
――つまり、神ならば《永劫の懊悩》を背負へ切れると?
――へっ、背負ひ切れなくて如何する? 《永劫の懊悩》で滅ぶやうな神ならば《存在》しない方がまだましさ。
――つまり、神はその《存在自体》がそもそも《存在》に呪はれてゐると?
――ああ、神は《存在》しちまったその時点で既に呪はれてゐるのさ、その《存在自体》にな。くっくっくっくっ。
いやらしい嘲笑であった。《そいつ》は何といやらしい嗤ひ方をするのであらうか。
――つまりだ。神は自ら《存在》することで生じる《矛盾》を全て引き受けた上でも泰然として、そして《存在》の《象徴》として《自然》に君臨するのさ。
――自然に君臨するだと? 逆じゃないのか? 《自然》が神共に君臨するんじゃないのかね?
――《自然》もまた神だとすると?
――へっ、八百万の神か――。
作品名:蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ 作家名:積 緋露雪