蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ
――しかし、蘗の《吾》といふ考へ方自体が独りよがりの独断でしかない。つまり、《吾》が《吾》である事は、地獄を復活する迄もなく、また、「神の斧」など理不尽な事を考へる迄もなく、《吾》は「先験的」に《吾》としてあるのさ。
――「先験的」? 《吾》とは「後天的」な《もの》ではないのかね?
――《吾》は何《もの》にも先立つ「先験的」な事柄さ。
――それぢゃ、これ迄、論じてきた蘗の《吾》は単なる吾等の夢想でしかないといふ事だね。
――否! 《吾》は、やはり、「神の斧」で理由なく理不尽にぶった切られた蘗の《吾》として此の世を生き延びるしかないのさ。
――何故にかね?
――《吾》が此の世に順応する為にさ。
――つまり、生存競争を生き延びる為には、使い古された襤褸屑の《吾》は切り捨てて、新たな蘗として芽生える《吾》に宿ってゐるに違ひない生命力を渇望する外に、此の世は生き延びられぬ、疑似地獄が現世なのさ。
――つまり、あるかもしれぬ蘗の《吾》の生命力を期待する外に、最早、《吾》は《存在》出来ぬ程に衰弱しちまったといふ事かね? へっ、そして、そんな羸弱な《吾》が《存在》してゐる現世が疑似地獄など、ちゃんちゃらをかしいぜ。はっきりと現世は地獄そのものとはっきり言明すればいいぢゃないか?
――此の世が地獄かどうかは、結局の処、主観の問題でしかなく、現世を極楽と看做してゐる輩も少なからずゐるのが、現実だらう。
――だが、お前は現世を来世と地続きの地獄として看做したくて仕方ない。違ふかね? そして、お前は、此の世の開闢したその刹那に地獄としての此の宇宙が誕生したと思ふ事で自己を慰撫したくて仕様がないのだらうが!
――自己を慰撫してはいけないのかい?
――否、そんな事はどうでもいい事さ。唯、お前はお前自身が此の世で一番可愛い《存在》と思ひ為したいだけなのさ。さうして、自己正当化する事で、「神の斧」で、ぶった切られた蘗の《吾》が芽生えるその非連続した《吾》を恰も連続した《吾》と看做したいだけなのさ。
――それで、別に構はぬではないか?
――ああ、さうさ。別にお前の勝手さ。しかし、ならば、今後、一切不変であって諸行無常な此の世の矛盾に対して不満を口にしちゃならないぜ。
――ちぇっ、私は今まで此の世に対して不満をぶちまけた事はこれっぽっちもないぜ。
――ふっ、その言ひ種の底流にお前の此の世に対する憤懣がぷんぷんと悪臭を放ってゐるのさ。
――しかし、此の世に《存在》する森羅万象で《吾》である事に満足してゐる《存在》なんぞ皆無だらう? それ故に、「神の斧」が《存在》し、《吾》が蘗の《吾》を芽生えさせる事で否応なく《吾》は変容し、さうして最良の《吾》でありたいと《吾》は絶えず渇望する《存在》であるのぢゃないかね?
――その最良の《吾》の出現の手助けが「神の斧」による《吾》の断絶かね? つまり、お前にとって《吾》が蘗の《吾》としてのみ此の世に《存在》するのは、《神》の御加護の為といふ事かね? 莫迦らしい!
――それでは、何故に《吾》は「神の斧」でぶった切られなくちゃならないのかね?
――それは、先刻言った通り、《吾》の冗長を阻む為さ。
――つまり、《吾》は「先験的」に冗長するやうに仕組まれてゐて、それ故に生存競争が《存在》するのだらうが、しかし、さうして現世で生き残った《存在》は、止めどなく自己増殖し、その結果、《吾》は何《もの》にも代へ難い《存在》へとのし上がる筈だが、しかし、《神》はそんな《存在》の足を掬ひ、「神の斧」で《吾》をぶった切る。それは一体全体何なのかね?
――それは《神》がそもそも此の世の森羅万象が気に食はぬからだらう。
――ちぇっ、《神》が此の世の森羅万象の《存在》が気に食はぬとは――。ならば、何故に《吾》は此の世に《存在》するのか!
――詰まる所、そんな事は自分で考へろ、と、《神》は言ってゐるのさ。
――そして、《神》は「神の斧」で《吾》をぶった切る?
――さう。さうして《神》は己が完璧と考へる《存在》の創出を願って已まないのさ。それは、また、《吾》にとっても願ったり叶ったりの事だらう?
――つまり、《存在》は、絶えず原点回帰、否、母胎回帰を繰り返す事で、何か極上の《存在》として此の世に屹立する完璧な《存在》を望むべく、此の世の開闢時から《吾》は絶えず蘗の《吾》になる事を仕組まれてゐるといふ事か――。ふはっはっはっ。
(完)
睨まれし
闇の中であればある程その鋭い眼光を光らせ、ぎろりと此方にその眼球を向けてゐる《そいつ》と初めて目が合ったのは、私が何気なしに鏡を見たその刹那のことであった。鏡面に映し出された私の顔貌の瞳の中に見知らぬ《そいつ》の顔が映ってゐるのに気付いてしまったのがそもそもの事の始まりなのであった。
《そいつ》と目が合った刹那、《そいつ》はにやりと笑ったやうな気がしたのである。それは私の思ひ過ごしかもしれぬが、《そいつ》は確かににやりと笑ったのである……。多分、《そいつ》は私が見つけるのを今の今までぢっと黙したまま待ち続けてゐたに違ひないのだ。
――やっと気付いたな。
その時《そいつ》はそんな風に私に対して呟いたのかもしれない。一方、私はといふと、馬鹿なことに《物自体》ならぬ《私自体》なるものを《そいつ》に見出してしまったのであった。
――俺だ!
私の胸奥の奥の奥で大声で叫んでゐる私が其処にはゐたのであった。
と、その刹那の事であった。私は不覚にも卒倒したのであった。その時の薄れゆく意識の中で私は
――Eureka!
と快哉を上げてゐたのかもしれなかったが、本当のところは今もって不明である。
爾来、私は《そいつ》の鋭き眼光に絶えず曝され睨まれ続けることになったのであった。吾ながら
――自意識過剰!
と、思はなくもなかったが、私の意識が《そいつ》の存在を認識してしまった以上、私が《そいつ》から遁れることなど最早不可能なのであった。
とにかく《そいつ》は神出鬼没であった。不意に私が見やった私の影に《そいつ》のにたりと笑った相貌が現はれたかと思ふと直ぐにその面を消し、そして私の胸奥で叫ぶのであった。
――待ってたぜ。お前が俺を見つけるのを!
また或る時は不意に私の背後でその気配を現はし、にょいっと首を伸ばして私の視界にそのいやらしい相貌を現はすのであった。虚を衝かれた形の私はといふと吾ながら不思議なことにそれに全く動ずることもなく唯にたりと笑ふのみで、恰も《そいつ》が私の背後にゐることが当然と言った感じがするのみであった。これは今にして思ふと奇怪なことではあったが、そもそもは私自身が《そいつ》の出現を待ち焦がれてゐたと今になっては合点が行くのであった。
――ふっふっ、到頭俺も気が狂(ふ)れたか?
などと自嘲してみるのであったが、《そいつ》から遁れる術は事此処に至っては全くなかったのである。
作品名:蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ 作家名:積 緋露雪