蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ
――すると、《吾》が《吾》と呼んでゐる《もの》こそ、此の世を夢へ堕す元凶なのか!
――さて、其処で、此の世の夢かもしれぬ現実が、結局、正真正銘、夢でしかない、換言すれば、表象が明滅する虚無の大海でしかないとすると、この《吾》が《吾》と呼んでゐる、既に主幹無き蘗の《吾》もまた、夢でしかないと、此の蘗の《吾》が甘受した処で、詰まる所、何にも変はりはせず《世界》は相変はらず《世界》のままで、「現存在」たる《吾》も相変はらず《吾》、つまり、主幹無き蘗の《吾》であって、其処にはTautology(トートロジー)の罠が渦巻いてゐるだけだぜ。
――渦巻かぬ《吾》とは、はて、何なのかね?
――渦巻かぬ《吾》? つまり、《吾》はそれが《存在》する限りTautologyの渦巻きの中にあると?
――へっ、当然だらう。今までに此の世に《存在》した森羅万象の中で、『Eureka(ユリイカ)! 《吾》を見つけたぞ!』と、全宇宙に響き渡る叫び声をあげた《存在》が、一度でも《存在》したとでも思ひ看做してゐるのかね?
――釈迦牟尼仏陀はどうかね?
――無を、諸行無常を、生老病死を語っただけぢゃないかね?
――基督は?
――磔刑にされた無惨な姿を今も衆目に曝し続け、《生》の「奇蹟」を《生者》に刷り込み続けてゐるだけさ。
――ムハンマドは?
――日常の、つまり、夢でしかないかもしれぬ日常に戒律といふ名の生きる作法を与へた基督教の分派の一つに過ぎぬのではないかね?
――それでは神は?
――へっ、此の世が神の夢でしかないとしたならば?
――神の夢とは、即ち、現実の事ではないのかね?
――否。神の夢は、此の世の森羅万象には与り知らぬ、唯の虚妄に過ぎぬのさ、へっ。
――さうすると、《世界》もまた、その主幹をぽきりと折られた蘗の《世界》といふ事か!
――当然だらう。
――さうすると、真実とは一体何なのだ!
――お前が現に対峙してゐる《吾》と《世界》の事さ。
――しかし、それはいづれも蘗の《もの》でしかないのだらうが!
――ふっ、ならば、Big Banへまで再び此の世を引き戻してみるかね? さうして見ないと、詰まる所、お前は納得行かぬのだらう?
――それでは一つ尋ねるが、そもそも科学は真かね?
――さあね。
――さあね? すると、科学すら真ではないといふのかね?
――ああ。その通りさ。科学は、此の世のからくりを理論立てて、それを実証してみるだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。つまり、科学は、何故に《世界》がこのやうに《存在》するのかといふ《存在》の根本の解答を、つまり、その因を解き明かす時は永劫に訪れないのさ。唯、科学は《世界》をなぞるのみなのさ。
――しかし、「現存在」を初めとする此の世の森羅万象は、全て、「《吾》は《吾》である」とは言ひ切れず、その自同律の不快と言はれるその不快をぢっと噛み締めながら、《吾》が此の世の淵源より発生した《もの》の一つである事を切望してゐる《もの》の筈だが、それは全て《吾》の、ちぇっ、蘗の《吾》の虚妄に過ぎぬといふ事かね? ざまあないぜ!
――それで《吾》は満足なのかい?
――満足? 何に対する満足かね?
――蘗の《吾》の《存在》自体が虚妄に過ぎぬといふ事さ。
――何処のどいつが、それに満足できるといふのか!
――しかし、殆どの「現存在」はその日が安寧に過ぎれば、それで満足ぢゃないかね?
――否。此の世の《存在》はそれが如何なる《もの》であっても、《存在》に対して或る猜疑心を抱いてゐる。
――つまり、それは、蘗の《吾》が《吾》でしかなく、それで《吾》はいいのかといふ存在論的な猜疑心だらう?
――さて、存在論的猜疑心とは、約めて言へば「不安」の事と違ふのかい?
――確かに其処には一理あるが、「不安」なんぞは《存在》する森羅万象が密かに抱くごくありふれた《もの》に過ぎぬ。
――すると、お前の言ふ存在論的猜疑心とは何の事かね?
――《吾》が喪失する事さ。
――《吾》の喪失? へっ、《吾》はそもそもが蘗の《吾》でしかなく、《吾》を既に喪失してゐるのぢゃなかったっけ?
――それぢゃ、一つ尋ねるが、お前は、己の事を《吾》と看做さないのかい?
――ふむ。
――蘗の《吾》だらうが、一度《存在》しちまへば、《吾》といふ観念はその《存在》に宿る筈だ。
――はて、《吾》の観念が宿るとは一体全体何の事かね?
――字義通り《吾》といふ観念が《存在》に宿るのさ。
――すると、《存在》といふのは、《吾》といふ観念の乗り物に過ぎぬといふ事かね? それでは今迄語ってゐた蘗の《吾》と大いなる矛盾を来たすのぢゃないかい?
――では、一つ尋ねるが、《吾》といふ観念は、「先験的」と思ふかい?
――う……む。「先験的」ね。そもそも《吾》が何なのか未だに解からぬこの蘗の《吾》に《吾》といふ観念が「先験的」かどうかなんて解かる筈がない。
――《吾》とは自然発生的に生じる《もの》といふ根拠がない以上、《吾》は「先験的」に《存在》に宿り、そして、例へばそれを「神の斧」と名付ければ、その「神の斧」でぶった切られた《吾》は、それでも此の世に適応するが如くに新たな《吾》を《存在》に見出し、蘗の《吾》は再びその《存在》に何事もなかったやぅに《存在》、つまり、此の世の森羅万象に宿る。
――すると、「神の斧」でぶった切られた《吾》は一体全体何と呼ぶのかね?
――当然、《吾》さ。
――さうすると、《吾》の連続性は失はれる事になるが、それは大いなる矛盾ではないのかね?
――ふっ、《吾》はそもそも非連続的な《もの》さ。
――《吾》が非連続? だが、大概の、例へば「現存在」は《吾》を非連続なんてこれっぽっちも思ってはゐないぜ。
――それこそ大いなる矛盾だらう。《吾》は既に《吾》が《存在》してゐる時には蘗の《吾》、つまり、《吾》は、そもそも非連続的な《もの》なのに、それを無理矢理に連続するが如く看做す誤謬に《吾》は拘泥する。そんなものしょんべんでもひっかけちまへばいいのさ。そもそも《吾》が《吾》の思ふやうに《存在》する事は《他》には偉い迷惑な話で、そんな傲慢な《吾》は《他》によって最終的には殺戮されるのが落ちさ。
――つまり、蘗の《吾》は、此の《世界》に巧く適応出来た《吾》の総称かね?
――否。此の世の《存在》全てに宿る《もの》の事だ。
――つまり、お前にとって《吾》は《存在》に先立つのだな。
――さう。何を置いても先づ《吾》が《存在》する。
――そして、その《吾》は、例へば「神の斧」でぶった切られ、さうして已む無く蘗の《吾》を芽生えさせ、その蘗の《吾》を後生大事に成長させると、途端に再び「神の斧」が『それは違ふ』と言ってゐるが如くにその蘗の《吾》をぶった切り、それでも《吾》は存続するべく、新たな蘗の《吾》を芽生えさせ、そして、それをまた、「神の斧」にぶった切れを何度も繰り返す事で、《吾》は此の世を生き延びて、《吾》は、そもそも一貫性がない非連続的な《もの》として、此の世の《世界》に《存在》し、巧く順応してゐる「奇蹟」の事の総称がお前の言ふ《存在》に、森羅万象に宿る《吾》かね?
作品名:蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ 作家名:積 緋露雪