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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ

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――だから、此の時空間はFractalな《もの》と看做した方が自然に適ってゐるのさ。といふのも、《楽》を求めて時空間に間隙を生み出すべく、物質を機器として人間の奴隷にしてみたはいいが、時空間には間隙が生じる代はりに更なる回転速度が高速となったとしか感じられぬ時空間の流れが、更に《楽》で生じた筈の時空間の間隙に厳然と《存在》することを人間は知るといふ笑ひ話にしかならない事を、此の人間は大真面目に今も尚追及してゐるが、それは、所詮、《死》の予行練習でしかない事を肝に銘じるべきなのさ。
――すると、《死》では時は途轍も速く流れてゐるといふ事かね? 
――それは、換言すれば、《死》においては時の流れは限りなく止まってゐるのと同じ事さ。
――ちぇっ、此処でも《無》と《無限》の問題か――。
――つまり、例へば人間を例にしてみると、人間は自己といふ主幹を先づ、羊水から此の世へと送り出される時に、バッサリと何かが手にする鉈でぶった切られて、仕方がなく此の世で生き抜くべく新たな主体を芽生えさせる事を強要されるが、しかし、その新たに芽生えた蘗として未来の主幹になるべき主体は、再び有無を言はせずにバッサリと切り倒され、更にそこから芽生えた蘗の中の主幹になり、主体となるべき《もの》は更にバッサリとぶった切られることを蜿蜒と繰り返すことに終始する。
――ちぇっ、それが何度も絶えず続く事でしか主体は主体として此の世に《存在》出来ぬのだらう? 
――だから、嘗ては、そのぶった切る時にちゃんと儀礼を執り行って主体の主幹をぶった切ってゐたが、現在では、それが曖昧模糊となり、何時の間にやら主幹たる主体は何かが手にした鉈でバッサリとぶった切られ、ぶった切られた《もの》は、へっ、何が吾の主幹たる主体をぶった切ったのかその顔すら全く不明の、ふっふっふっ、強ひて言えば、洒落を込めて「混迷の時代」になっちまったのさ。更に言へば主幹が何時ぶった切られたかも解からぬこの「混迷の時代」は、而も誰もが《吾》にあるに違ひない主体の主幹が一度も何かにぶった切られた事をも全く知る機会を喪失してゐて、そして《吾》の主体たる主幹が既にぶった切られ、その蘗の蘗の蘗の蘗の主幹になるべき筈だった主体すらぶった切られてゐる事すら知らぬ、へっ、如何なる主体も、「《吾》とは何処?」と呻きながら此の世の底辺を彷徨ってゐるのが実情だらう? 
――ふむ。主体とは初めに蘗になりき、か。
――さう。蘗でない主体を《吾》と言ふ欺瞞に此の世は満ち満ちてゐるが、これは例外なく、如何なる主体もその主幹を何回となくぶった切られた、へっ、途轍もなく屈折した主体としてしか此の世に《存在》する事が許されぬのだ。
――何に許されるといふのか? 
――自然だらうが! お望みならば《神》と言ひ切ってもいいがね? 
――ちょっと穿った見方をしてみると、或る種の人種、つまり、此の世の森羅万象は脳がさう見させているに過ぎぬ《もの》だと言ふ脳絶対主義者が《存在》するが、そんな理不尽な脳絶対主義者に対しても主体が蘗としてしかあり得ぬ事を納得させられるかね? 
――へっへっへっ、そんな奴らは抛っておけばいいのさ。
――つまり、元来、主体とは夢幻空花なる幻に過ぎぬといふ事か――。
――さう。主体が《吾》と名指す《もの》は既に何かにぶった切られてゐて、その正当性を失ってゐる蘗の蘗の蘗の蘗の、と蜿蜒と蘗のといふ言葉が続く、この蘗の主体は、何時まで経ってもその目的たる《吾》に至ることはなく、人は、つまり、「現存在」は、唯、茫然と虚空を仰ぎ見ながら『《吾》は何処ぞ?』と、絶えず問はずにはゐられぬ此の世の居心地の悪さに辟易しながらも、《吾》といふ《もの》は恰も《存在》するかの如く、何回目かの主体の蘗の主体を誕生から死すまで、一貫して、若しくは正当性があるやうに《吾》なる《もの》を《吾》と看做す自己欺瞞を平気でするのさ。
――だって、さうしなければ、《吾》は《吾》たる事に我慢出来やしないのぢゃないかね?
――しかし、《吾》が《吾》である必然性が何処にあるといふのかね?
――《吾》が《吾》である必然性?
――さうさ。《吾》は別に《他》であっても構はない代物ぢゃないかね?
――《吾》が《他》である事に、そもそも《吾》は堪へ得るやうには出来てやしないぜ。その一例が多重人格ではないのかね?
――多重人格者であっても、或る人格にある場合、それは欺瞞でしかないにも拘らず、その人格が《吾》である事は何の不自然な点はなく、多分、何かの人格になっていたとしてもその人格は『《吾》は《吾》だ!』と世界に向かって叫び声をあげる筈さ。
――では、蘗の主体でしかない主体とは、一体全体何なのかね?
――「根」は変はらぬ何かさ。
――つまり、主体の無意識の部分ではその蘗の主体の「根」は変はらぬといふ事かね?
――主体の「根」を無意識と看做していいのかどうか、私には判断のしようがないが、しかし、現代の高度情報化社会に誕生させられる如何なる《存在》も、その姿形を始めとしてその性質まで変へられて、つまり、矯正された主体、へっ、それが所謂主体の蘗なのだが、その《存在》の初めから主体が主体である自由を略奪されて、森羅万象は全て此の世に出現するのさ。
――ふっ、主体が主体である事は自由の問題かね?
――ああ。自由の問題だ。主体が蘗の主体でしかない事実を如何なる《存在》も避けてゐる故に、自分探しなんぞと悠長な、それでゐて夢見心地の下らぬ事が、恰も何か深遠な事の如くに蘗の主体は、位置付けてはみるのだが、結局、如何なる《存在》も自分を探せたと言挙げ出来る《存在》は此の世に《存在》した例がないぢゃないかね?
――ふむ。多分、如何なる《存在》も《吾》を見出しはしないか……。つまり、《吾》は《吾》であるといふ場合、その《吾》は連続性がなく、非連続な《もの》としてしか表象出来ぬ筈だし、仮に、《吾》が《吾》として一貫した《吾》として表象する《もの》は、それが欺瞞でしかない事実を甘受する、へっ、不快を、ぢっと噛み締める事が《吾》が唯一、此の世で生き延びさせられる蘗の主体でしかない主体の生存する智慧に違ひない。
――どの道、《吾》は誕生した時に既に臍の緒をぶった切るが如くに蘗の主体でしかない此の世の如何ともし難い摂理は、ちぇっ、神の仕業か! 神なんぞ糞喰らへだ!
――くっくっくっ。そもそも自然が主体に絶えず試練を与へ、主体が、へっ、蘗の主体が如何に此の世の自然に適応出来るか、神はその玉座に坐したままぢっとその様を凝視するのみといふ此の世の摂理を、《存在》する《もの》は既に「先験的」に受容してゐる事を如何なる《存在》も認めたくはない。つまり、《吾》が《存在》してゐると何の疑問も抱かずに素直に認める《もの》は、一生夢から覚めることなく、つまり、その《存在》に関して苦悶することなく、夢から彼の世といふ夢へと、此の世といふ現実に出合うことなくその《生》の光芒の残像を残すのが関の山だ。
――主幹なき蘗の主体は、すると、自分探しといふ莫迦な事を始めるといふ事は、つまり、酌めども尽きぬ夢の中に引き籠る事でしかないといふ事か――。
――さう。《吾》とは既に一貫性を喪失してゐるのさ。