蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ
――其処で一つ尋ねるが、《吾》は人力以上の動力で神の世を人の世に作り変へた、つまり、その徹頭徹尾《吾》の与り知らぬ《他》の手による人工の世界で、世界は時空間的には伝達若しくは《存在》の輸送手段の高速化故に見かけ上縮小し、それは即ち此の人工の世界に誕生させられた《吾》が否が応でも生き残る為に、膨張した架空の《吾》を《吾》と名指してみたはいいが、その実、己の内部にぽっかりと空いた《零の穴》若しくは《虚(うろ)の穴》に閉ぢ籠る外なかったのが、《吾》の置かれたのっぴきならぬ現状だとは思はぬか?
――つまり、其処には《反=吾》が棲まなければならぬ《吾》の《零の穴》若しくは《虚の穴》に、へっ、当の《吾》が己の身を《他》が満ち溢れてゐるとしか認識できない人工の世界から守るべく閉ぢ籠ったと?
――さう。《零の穴》若しくは《虚の穴》は《吾》にとって最後の砦になっちまったのさ。
――それは《吾》にとっては堪へ難き矛盾だらう?
――さうさ。《吾》が《吾》であることに「先験的」に矛盾しちまってゐる。
――それでその一つの帰結が決してその《存在》は許されぬところの《吾》は存在論的な蘗といったらいいのか、それは摩訶不思議な《存在》の仕方を選ばざるを得ぬといふ事だったのか?
――ああ。《吾》に《零の穴》若しくは《虚の穴》があり《吾》の蘗が生えるといふ事は、元来、世界が《吾》にとって慈悲深き《もの》といふ事の証左であったが、世界が神の世から人の世に変はった為に《反=吾》が其処にゐなければならぬ《吾》の《零の穴》若しくは《虚の穴》に《吾》それ自身が閉ぢ籠り、へっ、《吾》と《反=吾》はその《零の穴》若しくは《虚の穴》の中で縄張り争ひをしながら、人工の世界ではその存在が存在論的にあり得ぬ、つまり、架空にでっち上げられた存在論的な蘗の《吾》を《吾》と名指して、何とか《吾》と《反=吾》の棲み分けを試みてゐるが、へっ、土台《吾》と《反=吾》は一度出会ふと光となって霧散消滅する。
――つまり、絶えず《吾》と《反=吾》は《吾》の《零の穴》若しくは《虚の穴》で出会って、そして、光となりて消滅してゐるとするならば、一体《吾》が《吾》と名指し《吾》と呼んでゐる《もの》は何なのかね?
――だから言ったらう、《吾》がでっち上げた架空の膨張に膨張を重ねた醜い《吾》の化け物だと。
――つまり、この人工の世界に生き残るには、《吾》は率先して《吾》を滅却する外に、最早《吾》の、ちぇっ、これは変な言ひ分だが、その《吾》の生き残る《存在》の在り方は残されてゐないといふ事か――。
――それでも《吾》は生き延びなければならぬ。
――へっ、それは如何してかね?
――聞くまでもないだらう?
――つまり、後世に必ず出現する未だ出現せざる未知なる《もの》達の為に、世界を人力以上の動力で人工の世界に変へる狂気の例証として《吾》は、この異常極まりない人工の都市で生き残る外ない……違ふかね?
――更に言へば、《吾》は、《吾》の《零の穴》若しくは《虚の穴》で絶えず《吾》は生成しては即座に其処に棲まふ《反=吾》と出会っては光となりて霧散消滅することを繰り返してゐるとは言ひ条、其処には新たな《吾》の《存在》の仕方が生まれるのではないかといふ密かな密かな期待が、ちぇっ、《吾》のEgo(エゴ)に満ち満ちた下らぬ、誠に下らぬ淡き期待が隠されてゐるのさ。
――しかし、それは《吾》の化け物とはいへ、少なくとも《吾》はそれが人工の世界では存在論的にはあり得ぬ《吾》の蘗に過ぎぬとしてもだ、《吾》が人工の世界=内=存在としての「現存在」たる《吾》が、「《吾》とは何ぞや?」と「現存在」たる《吾》に絶えず問はずにはゐられぬのは、自然の道理ぢゃないかね?
――ああ。《吾》は《吾》を喪失しても、やはり《吾》は《吾》として《存在》することを強要され、そして、「現存在」たらむとしてあり続ける、言ふなれば何処までもみっともない《存在》ぢゃないかね?
――へっ、やっと腹を括ったか――。
――腹を括るも括らないも、現に今俺は《存在》してゐる――筈だ。
――筈だ? つまり、《存在》してゐると断言は出来ないんだね、へっ。
――へっへっへっ。最早、何《もの》も、ちぇっ、「俺は俺だ!」ときっぱりと断言出来る《存在》としての、換言すれば、此の《生者》のみが「俺は俺だ!」と宣ふ事を許された《存在》としての、へっへっ、この《生者》たる《吾》は、恰もそんな《吾》が此の世に《存在》するが如く《吾》といふ《存在》を無理矢理にも、若しくは自棄(やけ)のやんぱちにでも架空せざるを得ず、また、神から掠奪した人工の《世界》において、《吾》を《吾》と名指す事のその底無しの虚しさは、《吾》の内部にぽっかりと空いた《零の穴》若しくは《虚(うろ)の穴》の底無しを表はしてゐるに違ひないのだが、さて、《死》を徹底的に排除した《生者》のみが棲息するこの人力以上の動力で作り上げられた此の人工の《世界》は、へっ、自然に対して余りにも羸弱(るいじゃく)ではないかね?
――それは全く嗤ひ話にもならぬ事だが……。此の《生者》の為のみに作り上げられた人工の《世界》は全くもって自然に対して羸弱極まりない!
――すると、此の人工の《世界》に生きる事を、若しくは《存在》する事を強要された《吾》といふ架空され、《吾》の妄想ばかりが膨脹した此の《吾》もまた、自然、ちぇっ、単刀直入に言へば《死》を含有する自然に対しては羸弱ではないかね?
――へっ、元来、《吾》が《死》に対して強靭だった事など、此の宇宙全史を通じてあったかね?
――だが、自然にその生存を全的に委ねてゐた時代の《吾》たる《もの》は、傍らに《死》が厳然と《存在》してゐた分、それを敢へて他力本願と名指せば、己の命を《吾》為らざる《もの》に全的に委ねるといふ、何とも潔い《生》を生きてゐた筈だ。つまり、《死》が身近故に、《存在》は《存在》する事に腹を括り、そして、《吾》は蘗の《吾》をも含めて如何様の在り方をする千差万別の《吾》を、《世界》も《吾》も極当然のこととして受け容れてゐた。
――ふむ……。《生》が《死》へと一足飛びに踏み越え、簡単に自ら死んで行く、つまり、それ故、原理主義が彼方此方に蔓延(はびこ)る、へっ、その結果、《死》に対して何とも余りに羸弱極まりない《吾》、そして、その《吾》の《存在》の無理強ひが《死》を徹底的に排除した人工の《世界》へと遂には結実して行くのだが、しかし、嘗ての《吾》が多様に《存在》する、若しくは自在に《存在》出来てゐたに違ひない神と共に《存在》出来た神の世において、果たして、狂信は齎されなかったとでも思ふのかい?
――いいや、何時の時代でも《もの》は何かを狂信してゐたに違ひない筈さ。
――ならば、何故、彼方此方に蔓延る現代の原理主義ばかりを特別視するのかね?
――現代の原理主義は、徹頭徹尾《生者》の論理、ちぇっ、それは裏を返せば冷徹な《死》の原理に地続きなのだが、それ故、現代の原理主義は、二分法を極めて厳格に適応した末に生まれてしまった、その実、背筋がぞっとせずにはいられぬ代物でしかないからさ。
作品名:蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ 作家名:積 緋露雪