蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ
その醜悪極まりない《吾》の鏡像としてしか現はれぬ《異形の吾》の一人はにたりといやらしい薄笑ひをその相貌に浮かべたまま、再び
――馬~鹿!
と彼を罵るのであった。
――へっ、馬鹿に徹してしかこの異様な浮世では誠実であることは不可能なのさ。
――馬~鹿!
――どうも有難うごじぇえますだ、俺を馬鹿呼ばわりしてくれて、ふん。
――その大馬鹿者に一つ尋ねるが、お前は、此の異様な《他人》が徹頭徹尾作り上げ神から《世界》を掠奪した人の世に生きることが楽しいかね?
――さあね。楽しくもあり、また、不愉快極まりなくもある。
――それぢゃあ、お前は人間が神の御手から掠奪した此の異様な《世界》を承認するかね?
――いいや、絶対に受け入れられぬ。
――ならば何故に生き残るなどと嘯くのかね?
――逃げられないからさ。
――逃げられない?
――ああ、此の世に《存在》しちまった《もの》はその《世界》から遁れられぬし、また、此の世から遁れる出口なんぞは何処にもありゃしないのさ。それはつまりこの人工の《世界》では自死することすら全く無意味な行為でしかなく、《吾》が自死しようがこの人工の《世界》は「また《吾》が自死したぜ! 全く《吾》とは間抜けな《存在》だぜ」と腹を抱へて哄笑するのが落ちさ。つまり、この人工の《世界》では如何足掻かうが「出口無し!」と相場が決まってしまってゐるのさ。
――では《愛》は何なのか?
――《吾》が《吾》として架空されてゐることを確認する一行為に過ぎぬのさ、この人工の《世界》では!
――すると《吾》とは既に幻影の類に成り果ててしまったのかね?
――ふっふっふっふっ、さう望んだのは人間自身ぢゃないのかね?
――何をしてお前にさう言はしめるのかね?
――へっ、人間は人力以上の《力》を手にした途端、《世界》を神から掠奪する事に一見成功したやうに見えるが、その実、人力以上の《力》で作られ、その挙句、人工物で埋め尽くした此の人工の《世界》は、へっ、既に人間の想像の範疇を超えた何かでしかないからさ。そんな《世界》における世界=内=存在を一身で体現出来る《吾》なんて、へっ、幻影でなければ一体何だといふのかね?
――つまり、この世界=内に《存在》する《吾》は、己の手で此の現実に対さねばならぬのっぴきならぬ立場に自らを追ひ込み、そして、人力の無力さを嫌といふ程味はひ尽くした上に、此の《世界》に対峙する事の辛酸を嘗め尽くさずば、《吾》の本当のところは不明といふ事かね? 否、むしろ己の虚無さ加減が解からぬといふ事かね?
その時、彼はゆっくりと瞑目し、瞼裡に朧にその相貌を浮き上がらせた或る《異形の吾》をきっと睨み付けてかう問ふたのであった。
――人間が人力以上の動力を手にした瞬間に、《吾》は《吾》の化け物と化して、その或る仮構された《吾》らしき《もの》を如何足掻いても《吾》と名指す外なく、そして、さう名指すことでやっとその無力なる己の屈辱感を一瞬でも忘却したかった、ちぇっ、つまり、この世界=内=存在を一身で体現しなければならぬこの《吾》といふ生き物のどん詰まりを味はひ尽くさずば、最早《吾》など泡沫の夢に過ぎぬといふことかね?
――さう、人間は人間の欲望の涯に人力以上の動力を手に入れて、その《力》で強引にすら思へる程にこの現実を作り変へた結果、《吾》といふ実体を見失ってしまったのさ……否! 最早、《吾》といふ《もの》を実感を持って《吾》と、この《吾》は断言出来なくなってしまったのだ!
――それは人力以上の動力を手にした《吾》は最早《世界》に対峙する術を、つまり、《生身の吾》によってしか対峙出来ぬ此の《世界》を見失ったといふことかね? 更に言へば、《吾》は《吾》本来の姿から遥かに膨脹してしまった何かに既に成り果ててしまったといふことかね?
――ふっ、《吾》の膨脹ね――。人力以上の《力》で《世界》を人工の《もの》として神から掠奪し果せた人間は、換言すれば、その神から掠奪しようと己の手を汚して《世界》を手にした第一世代は、多分、未だ《吾》が《吾》である実感がしっかりとあったに違ひない筈だが、それ以降の世代、つまり、生まれる以前に既に《世界》が誰とも知らぬ他人(ひと)の手で人力以上の《力》で人工の《もの》へと変はってしまってゐた第二世代以降の人間は、さて、どうやって己の生存を保障したのかお前にも想像はつくだらう。
――つまり、《吾》は、《吾》であることを断念し、その誰とも知れぬ他人の手になる、しかも、人力以上の《力》で作り変へられてしまった人工の世界=内=存在に徹する外に、この《吾》が生き延びる術は最早残されてゐなかった……違ふかね?
――詰まるところ、《吾》は《吾》本来備わってゐた筈の《生身の吾》といふ主幹を自らぽきりと折って、この人工の《世界》に適応するべく生える筈がない《吾》の蘗の生長を、へっ、架空する外なかったのさ、ちぇっ。
――へっ、その結果出現したのが、中身ががらんどうの、それでゐて人力以上の《力》を手にした故に膨脹せずにはゐられなかった《吾》の化け物を、ちぇっ、《吾》と名指す愚劣を犯す外になかったこの何とも哀れなる《吾》といふ訳か――。
――しかし、さうすると、この人工の《世界》をぶち壊せば、簡単に、元通りの再び神の《世界》の中の実感ある《吾》を取り戻せるのぢゃないのかね?
――へっ、「創造と破壊」と言っては、ぷふぃっ、洒落る訳ね?
――といふ事は、「創造と破壊」は最早無意味な呪文の一種でしかないと?
――へっ、さうさ。シヴァ神を復活させたところで、最早其処にはTerrorism(テロ)の恐怖しか齎さないのは、忌まわしき日本のオーム真理教による地下鉄Sarin(サリン)事件といふTerrorismや宗教の忌まわしき処を具現化しちまった原理主義者による亜米利加(US)で起きた同時多発Terrorismが図らずも証明しちまったのぢゃないかね?
――つまり、《吾》の実感を追ひ求めることは、即ち、原理主義の台頭を、就中(なかんづく)、暴力を絶対的に肯定する「聖戦」を掲げた原理主義に直結しちまふ時代が到来しちまったといふことだね?
――さう、哀しい哉、《吾》は、ちぇっ、この主幹なき《吾》の蘗が生長し、その内部に《虚(うろ)の穴》を持つこの《吾》は、人力以上の《力》を手にし膨張に膨張を重ねた揚句に誕生しちまったこの《吾》といふ名の化け物と何とか折り合ひをつけなければ、只管、無意味な《死》、つまり、犬死する《吾》、若しくは現代の人身御供たる《吾》を大量に生み出すのみの何とも惨憺たる状況に《吾》は既に陥っているといふことさ。
――その因が、即ち人類が人力以上の《力》を手にして此の《世界》を神から掠奪したといふことなのか――。
作品名:蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ 作家名:積 緋露雪