蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ
また何処かで《吾》が《吾》を呑み込む際に発せられる《げつぷ》か《溜息》か、将(はた)又(また)《嗚咽》かがhowling(ハウリング)を起こして彼の耳を劈くのであつた。それは《存在》が尚も存続しなければならぬ哀しみに違ひなかつた。《他》の《死肉》を喰らふばかりか、この《吾》すらも呑み込まざるを得ぬ《吾》といふ《存在》の悲哀に森羅万象が共鳴し、一瞬Howling(ハウリング)を起こす事で、それはこの宇宙の宇宙自身に我慢がならぬ憤怒をも表はしてゐるのかもしれなかつたのである。その《ざわめき》は死んだ《もの》達と未だ出現ならざる《もの》達と何とか呼応しようと懇願する、出現してしまつた《もの》達の虚しい遠吠えに彼には思へて仕方がなかつたのであつた。
実際、彼自身、昼夜を問はず《吾》を追ひ続け、やつとの事で捕まへた《吾》をごくりとひと呑みする事で《吾》は《吾》である事を辛うじて受け入れる、そんな何とも遣り切れぬ虚しい日々を送つてゐたのであつた。
…………
…………
――《存在》は全て《吾》である事に懊悩してゐるのであらうか?
――全てかどうかは解からぬが、少なくとも《吾》が《吾》である事に懊悩する《存在》は《存在》する。
――ふつ、そいつ等も吾等と同様に《吾》といふ《存在内部》に潜んでゐる《特異点》といふ名の《深淵》へもんどりうつて次次と飛び込んでゐるのだらう……。さうする事で辛うじて《吾》は《吾》である事を堪へられる。ちえつ、「不合理故に吾信ず」か――。
――付かぬ事を聞くが、お前は、今、自由か?
――何を藪から棒に。
――つまり、お前は《特異点》に飛び込んだ事で、不思議な事ではあるが《自在なる吾》、言ひ換へると内的自由の中にゐる自身を感じないのかい?
――それは天地左右からの解放といふ事かね?
――へつ、つまり、重力からの仮初の解放だよ。
――重力からの仮初の解放? へつ、ところがだ、《吾》は《特異点》に飛び込まうが重力からは決して解放されない!
――お前は、今、自身が落下してゐると明瞭に認識してゐるのかね?
――…………。
――何とも名状し難い浮遊感に包まれてゐるのぢやないかね?
――へつ、その通りだ。
――それは重力に仮初にも身を、否、意識を任せた結果の内的な浮遊感だらう?
――ちえつ、それは、つまり、《地上の楽園》を断念し《奈落の地獄》を受け入れた事による《至福》といふ事かね?
――へつ、何を馬鹿な事を言ふ。それは《存在》が《存在》してしまふ事の皮肉以外の何ものでもないさ。
――皮肉ね。そもそも《存在》とは皮肉な《もの》ぢやないのかね?
――さうさ。《存在》はその出自からして皮肉そのものだ。何せ、自ら進んで《特異点》といふ名の因果律が木つ端微塵に壊れた《奈落》へ飛び込むのだからな。
――やはり《意識》が《過去》も《未来》も自在に行き交へてしまふのは、《存在》がその内部に、へつ、その漆黒の闇を閉ぢ込めた《存在》の内部に因果律が壊れた《特異点》を隠し持つてゐるからなのか?
――そしてその《特異点》といふ名の《奈落》は《存在》を蠱惑して已まない。
――へつ、だから《特異点》に飛び込んだ《意識》は《至福》だと?
――だつて《特異点》といふ《奈落》へ飛び込めば、《意識》は《吾》を追ふ事に熱中出来るんだぜ。
――さうして捕らへた《吾》をごくりと呑み込み《げつぷ》をするか――。へつ、詰まる所、《吾》はその呑み込んだ《吾》に食当たりを起こす。《吾》は《吾》を《吾》として認めやしない。つまり、《吾》を呑み込んだ《吾》は《免疫》が働き《吾》に拒絶反応を起こす。
――それはどうしてか?
――元元《吾》とは迷妄に過ぎないのさ、ちえつ。
――それでも《吾》は《吾》として《存在》するぜ。
――本当に《吾》は《吾》として《存在》してゐるとお前は看做してゐるのかね?
――ちえつ、何でもを見通しなんだな。さうさ。お前の見立て通りさ。この《吾》は一時も《吾》であつた試しがない。
――それでも《吾》は《吾》として《存在》させられる。
――くきいんんんんんんんん~~。
一時も休む事なくぴんと張り詰めた彼の周りの時空間で再び彼の耳を劈くその時空間の断末魔の如き《ざわめき》が起きたのであつた。それは羊水の中から追ひ出され、臍の緒を切られて此の世で最初に肺呼吸する事を余儀なくさせられた赤子の泣き声にも似て、何処かの時空間が此の世に《存在》させられ、此の世といふその時空間にとつては未知に違ひない世界で、膨脹する事を宿命付けられた時空間の呻き声に彼には聞こえてしまふのであつた。「時空間が膨脹するのはさぞかし苦痛に違ひない」と、彼は自ら嘲笑しながら思ふのであつた。
――なあ、時空間が膨脹するのは何故だらうか?
――時空間といふ《吾》と名付けられた己に己が重なり損なつてゐるからだらう?
――己が己に重なり損なふといふ事は、この時空間もやはり自同律の呪縛からは遁れられぬといふ事に外ならないといふ事だらうが、では何故に時空間は膨脹する道を選んだのだらうか?
――自己増殖したい為だらう?
――自己増殖? 何故時空間は自己増殖しなければならないといふのか?
――ふつ、つまり、時空間は此の世を時空間で占有したいのだらう。
――此の世を占有する? 何故、時空間は此の世を占有しなければならないのか?
――「《吾》此処にあるらむ!」と叫びたいのさ。
――あるらむ?
――へつ、さうさ、あるらむだ。
――つまり、時空間もやはり己が己である確信は持てないと?
――ああ、さうさ。此の世自体が此の世である確信が持てぬ故に《特異点》が《存在》し得るのさ。逆に言へば《特異点》が《存在》する可能性が少しでもあるその世界は、世界自体が己を己として確信が持てぬといふ事だ。
――己が己である確信が持てぬ故にこの時空間は己を求めて何処までも自己増殖しながら膨脹すると?
――時空間が自己増殖するその切羽詰まつた理由は何だと思ふ?
――妄想が持ち切れぬのだらう。己が己に対して抱くその妄想が。
――妄想の自己増殖と来たか――。
――実際、己が己に抱く妄想は止めやうがなく、己が己に対する妄想は自然と自己増殖せずにはゐられぬものさ。深海生物のその奇怪な姿形こそが己が己に対して抱く妄想の自己増殖が行き着ゐた一つの厳然とした事実とは思はぬかね?
――ふつふつ、深海生物ね……。まあ、よい。それよりも一つ付かぬ事を聞くが、お前はこの宇宙以外に《他》の宇宙が《存在》すると考へるかね?
――つまり、《他》の宇宙が《存在》すればこの宇宙の膨脹はあり得ぬと?
――へつ、《他》の宇宙が仮に《存在》してもこの宇宙の《餌》でしかなかつたならば?
――宇宙の《餌》? それは一体全体何の事だね?
――字義通り只管(ひたすら)この宇宙の《餌》になるべくして誕生した宇宙の事さ。
――生き物を例にして生きて《存在》する《もの》は大概口から肛門まで管上の《他》たる穴凹が内部に存在すると看做せば、その問題の《他》の宇宙をこの宇宙が喰らふといふ事は、即ち、この宇宙内に《他》の宇宙の穴凹がその口をばつくりと開けてゐるといふ事ぢやないかね?
作品名:蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ 作家名:積 緋露雪