蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ
――……《己》は……《己》に呪はれ……絶えずその苦痛に呻吟する外ない《己》であり続ける責苦を味はひ尽くすのさ。
――へつ、《己》とは地獄の綽名なのか?
――さうだ――。
――さうだだと? 《己》が地獄の綽名だといふのか?
――じやあ、お前は《己》を何だと思つてゐたのだ? へつ、つまり、お前は《己》を何と名指すのだ?
――そもそもだ、《己》が《己》であつてはいけないないのか?
――いや、そんな事はないがね、しかし、《己》は《己》と名指される事を最も嫌悪する《存在》ぢやないかね?
――ちえつ。
――だから、《存在》する《もの》全てはこの地獄でざわめき呻吟せざるを得ないのさ。
――えつ、地獄での呻吟だと? 先程このざわめきは《己》が《己》を呑み込んだ《げつぷ》と言つた筈だが、それがこのざわめきの正体ではないのかい?
――その《げつぷ》が四方八方至る所で起こつてゐるとしたならば、お前は何とする?
――何とするも何もなからう。無駄な抵抗に過ぎぬ事は火を見るよりも明らかだがね……、唯、耳を塞ぐしかない。まあ、それはさてをき、これは愚問に違ひないが、そもそも《己》は《己》を呑み込まなければ一時も《存在》出来ぬ《存在》なのかね?
――さうさ。《己》は《己》になる為にも《己》を絶えず呑み込み続ける外ないのさ。
――それは詭弁ではないのか?
――詭弁?
――さうさ。《己》は《己》なんぞ呑み込まなくても《己》として既に《存在》してゐる……違ふかね?
――つまり、お前は《存在》すれば即《己》といふ《意識》が《自然》に芽生えると考へてゐるといふ事か……。
――さうだ。
――ふつ、よくそんな能天気な考へに縋れるね。ところで、お前はお前である事が《悦楽》なのかい?
――《悦楽》? ははあ、成程、自同律の事だな。
――さう、自同律の事さ。詰まる所、お前は自同律を《悦楽》をもつて自認出来るかね?
――ふつ、自同律が不快とばかりは決められないんぢやないかね? 自同律が《悦楽》であつてもいい筈だ。
――じやあ、この耳障りこの上ないざわめきを何とする?
――もしかすると地獄たる《己》といふ《存在》共が「吾、見つけたり。Eurika!」と快哉を上げてゐるのかもしれないぜ。
――ふはつはつはつ。冗談も大概にしろよ。
――冗談? 《己》が《己》である事がそんなにをかしな事なのかい?
――《己》が《己》である事の哀しさをお前は知らないといふのか。《己》が《己》である事の底無しの哀しさを。
――馬鹿が――。知らない訳がなからうが。詰まる所お前は「俺」なのだからな、へつ。
――ならば尚更この耳障りこの上ないざわめきを何とする?
――ふむ。ひと言で言へば、このざわめきから遁れる事は未来永劫不可能だ。つまり、お前が此の世に存在する限り、そして、お前が彼の世へ行つてもこのざわめきから遁れられないのさ。
――へつ、だからこのざわめきを何とする?
――ちえつ、お手上げと言つてゐるだらう。率直に言つて、この《存在》が《存在》してしまふ哀しさによるこの耳障り極まりないざわめきに対しては何にも出来やしないといふ事さ。
――それぢや、このざわめきを受け入れろと?
――ふん、現にお前はお前である事を受け入れてゐるぢやないか! 仮令《存在》の《深淵》を覗き込んでゐようがな。
――くいんんんんんん~~。
――ふつ、また何処ぞの《己》が《己》に対してHowlingを起こしてゐやがる。何処かで何ものかが《存在》の《げつぷ》をしたぜ、ちえつ。
――ふむ。……いや……もしかするとこれは《げつぷ》じやなくて《存在》の《溜息》ぢやないのかね? 《存在》が《存在》してしまふ事の哀しき《溜息》……。
――へつへつ、その両方さ。
――ちえつ、随分、都合がいいんだな。それぢや何でもありじやないか?
――《存在》を相手にしてゐるんだから何でもありは当たり前だろ。
――当たり前?
――さう、当たり前だ。ところで一つ尋ねるが、これまで全宇宙史を通して《自存》した《存在》は出現したかい?
――藪から棒に何だね、まあ良い。それは《自律》じやなくて《自存》か?
――さう、《自存》だ。つまり、この宇宙と全く無関係に《自存》した《存在》は全宇宙史を通して現はれた事があるかね?
――ふむ……無いに違ひないが……しかし……この宇宙は実のところそんな《存在》が出現する事を秘かに渇望してゐるんじやないのかな……。
――それがこの宇宙の剿滅を誘はうとも?
――さうだ。この宇宙がそもそも剿滅を望んでゐる。
――何故さう思ふ?
――何となくそんな気がするだけさ。
有機物の死骸たるヘドロが分厚く堆積した溝川(どぶかは)の彼方此方で、鬱勃と湧く腐敗Gas(ガス)のその嘔吐を誘ふ何とも遣り切れないその臭ひにじつと我慢する《存在》にも似たこの時空間を埋め尽くす《ざわめき》の中に、《存在》する事を余儀なくせざるを得ない彼にとつて、しかしながら、それはまた堪へ難き苦痛を彼に齎すのみの地獄の責苦にしか思へぬのであつたが、それは詰まる所、《存在》の因業により発せられる《断末魔》が《ざわめき》となつて彼を全的に襲ひ続けると彼には思はれるのであつた。
…………
…………
――《存在》は自らの剿滅を進んで自ら望んでゐるのだらうか?
――《存在》の最高の《愉悦》が破滅だとしたならばお前は何とする?
――ふむ……多分……徹底的に破滅に抗ふに違ひない。
――仮令それが《他》の出現を阻んでゐるとしてもかい?
――ああ。ひと度《存在》してしまつたならば仕方がないんぢやないか。
――仕方がないだと? お前はさうやつて《存在》に服従するつもりなのかい?
――《存在》が自ら《存在》する事を受け入れる事が《存在》の服従だとしても、俺は進んでそれを受け入れるぜ。仮令それが地獄の責苦であつてもな。
――それは、つまり、《死》が怖いからかね?
――へつ、《死》を《存在》自らが決めちやならないぜ、《死》が怖からうが待ち遠しいからうがな。《存在》は徹底的に《存在》する事の宿業を味はひ尽くさなければならぬ義務がある。《存在》が《存在》に呻吟せずに滅んで生れ出た《他》の《存在》などお前は認証出来るかい? 何せこの宇宙が自ら《存在》に呻吟して《他》の宇宙の出現を渇望してゐるのだからな。
――つまり、《存在》が呻吟し尽くさずして何ら新たな《存在》は出現しないと?
――ふつ、違ふかね?
――くいんんんんんんん~。
作品名:蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ 作家名:積 緋露雪