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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ

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 経験則に照らすと《自由》を謳歌するには蟻地獄に落ちた《単独者》たる一匹の羸弱な蟻になる覚悟が《何か》によつて強要される。それは台風の進路を予測するのに隣り合ふ高気圧のことを全く考慮せずに台風の進路を予測するといふ、換言すれば暗中の中を灯り無しに突つ走る《愚行》と同じことなのかもしれないのである。つまり、颱風が自律的に自身の意思で動いてゐると看做す《暗愚》とそれは同じで、しかし、さうとはいへ、それでも尚颱風が自己たる《吾》の意思に従つてあくまで自律的に動いてゐると看做して只管(ひたすら)自己弁護する哀れな《吾》を主張するはいいが、しかし、その実、後に残るのは只管自身内部で空転し猛烈な風雨が逆巻く己の有様だけに対峙する世界=内に閉ぢてしまつた阿呆な《存在》の姿である。そしてそんな颱風の《自意識》は絶えずこんな愚問を己に発してゐる筈である。
――はて? この渦に呑み込まれる《吾》とは、一体何なのであらうか? 
と。例へば仮に颱風にも自身を客観視して已まない《異形の吾》若しくは《対自》といふ自我が芽生えてゐるならば、その《異形の吾》は、自身が最早自身が渦巻くその渦から決して出られない、恰も蟻地獄に落ちた蟻の如き自身を苦笑する外ないのである。此処で止揚などといふインチキを用ひるのは禁物である。未だ嘗て《吾》から出られた《吾》は此の世に《存在》することを許されてゐない筈だからである。さうならば、颱風もまた己からは死んでも遁れられない《異形の吾》といふ何とも悩ましい自我を抱へ込まざるを得ないのである。
――出口無し――。
 これが《異形の吾》が自身に発せられる唯一の言葉に違ひない。それは当然至極なことである。《吾》といふ《存在》は、それが何であれ、《吾》といふ《存在》から決して出られない故に、《吾》が《吾》である保証、若しくは存在根拠を辛うじて維持してゐられるのである。仮令《吾》が《他》に変化出来る魔法を《吾》が手にしたところで、結局のところ、《他》に変化せし《吾》は《吾》でしかないのである。
《吾》とは、《吾》が《吾》であることを自覚させられ、また、その出自の如何に拘はらず、《吾》は蟻地獄に落ちた一匹の蟻の如く《吾》といふ《場》から最早永劫に出られぬことを決定させられた《存在》なのかもしれない。そんな《吾》はその《存在》の、若しくは意識活動の大半を《異形の吾》の憤懣を宥(なだ)めすかすことに費やされることになるのである。その因の一部は「他人の庭はよく見える」といふ喩へ通り《他》と己を比較することからも生じるが、しかし、さうとはいへ、己といふ《存在》が自身の《存在》に満足することはあり得ず、仮に自身に満足してゐる《吾》が《存在》するとすれば、それは《吾》の怠慢でしかない。《吾》と名指された《存在》は絶えず内外から自身の《存在》を喪失するかもしれぬ恐怖に苛まれながらも《吾》を此の世に屹立させて、だがその《存在》の仕方は《吾》といふ《存在》の自棄のやんばちでしかないが、しかし、何としても自身の《存在》を崩壊の危機から救ふべく《吾》は此の世に対して、若しくは《神》に対して
――《吾》、此処に在り! 
と叫ばずにはゐられないのである。だが、一方で
――その《吾》に何の意味がある? 
と、更にぼそつと胸奥で呟く《吾》がまた《存在》するのである。スピノザ風に言へば、そのぼそつと呟いた《吾》がまた《吾》の胸奥の奥の奥に《存在》する、そして、《吾》にぼそつと呟く胸奥の奥の奥の奥の別の《吾》といふ関係が《無限》に続く、云々。それ故その《吾》とはabsurb、つまり、不合理である、と、其処で《無限》といふ《もの》へと思考の飛躍に駆られたくなる衝動もなくはないが、しかし、幾ら
――その《吾》に何の意味がある? 
と、胸奥でぼそつと呟く《吾》が《存在》しようとも、《吾》は《吾》からは逃げ出せないのである。そしてまた、
――だからそれが如何したといふのか? 
と、自身を嘲笑ふ《吾》もまた己には《存在》し、絶えず己を嘲笑してゐるのである。そな《吾》を嘲笑する《吾》自身を敢へて規定するならば、一人称でもあり、二人称でもあり、三人称でもあり得るし、更に言へば、《四人称》と名付けたくなる《脱自》すらをも何なく飛び越えてしまふ《存在様式》を持つ《吾》が《単独者》として《存在》してしまふ宿命にあるのかもしれない……。
 そして、その《四人称》の《吾》とは颱風の如く自身の内部では猛烈な風雨が逆巻く自身の渦に呑み込まれた何とも摩訶不思議な《存在》の仕方をする《吾》であり、此の世で最強の《もの》のなれの果てたる蟻地獄に落ちた一匹の羸弱な《単独者》たる蟻の如き《もの》として私には表象若しくは形象されるのであつた。
 さて、四人称の《吾》とはそもそも一体何であらうか。答へは単純明快である。此の世を五次元多様体と想定すれば、四人称の《吾》が登場せずにはゐられないである。更に言へば、頭蓋内の闇を五次元の五蘊場と想定すれば、四人称の《異形の吾》はこの五次元の《吾》に巣食ひ、頭蓋内を六次元の五蘊場と想定すれば五人称の《異形の吾》がこの六次元の《吾》に巣食はざるを得ないである。そして、その四人称の、そして、五人称の《異形の吾》こそ擂鉢状の蟻地獄の形状をした穴凹としてのみ《吾》には絶えず形象されてしまふのである。今現在《主体》が四次元時空間に事実《存在》してゐるとすれば、その《主体》は例へばBlack hole(ブラつクホール)を形象するのにやはり擂鉢状をした底無しの穴凹を形象せずにはゐられぬこととそれは同一のからくりに違ひないのである。つまり、吾等の思考法は、詰まる所、世界内の《主体》のそれでしかなく《主体》以外の思考法が想像だに出来ない《主体》の思考の限界若しくは宿命と呼ぶべき、《主体》のど壺にすつぽりと嵌まつて其処から永劫に脱することなき《主体》といふ《単一》な思考法のことなのである。それ故《主体》即ち《吾》にとつて《他》は絶えず宇宙の涯をも想像させる超越者としてしか出現しないのである。否、《他》は超越者としか出現の仕様が無いのである。そして、《他》は依然として謎のまま《主体》の面前に姿を現はすが、《主体》たる《吾》は、実のところ、《吾》の反映としか理解出来ない《他》に特異点を見出してしまふ筈である。否、《主体》たる《吾》は《他》に特異点を見出さなければならぬのである。それは詰まる所、《他》を鏡とする外ない《主体》たる《吾》にとつてその《吾》は如何あつても無限を憧れざるを得ない故にその内部に特異点を隠し持ち、その《吾》にある特異点こそ何を隠さう蟻地獄状の穴凹としてぽつかりと大口を開けた《もの》として絶えず《主体》は形象することになるのである。パスカルはそれを「深淵」(英訳Abyss)と言挙げしたが、《主体》が《存在》するには絶えずその深淵と対峙することが課されてゐるのである。そしてそれは口を開いた穴凹として形象せざるを得ず、万が一にもその穴凹の口を塞いでしまふと、《主体》は《実存》といふ《閉ぢた存在》でしかない《存在》の罠にまんまと引つ掛かつてしまふのである。