蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ
《自力》で餌を追ふことを《断念》し、只管(ひたすら)あんなちつぽけな擂鉢状の穴凹に蟻等が落ちて来るのを待つ《他力》に自らの生死を全的に任せてしまつたその蟻地獄の生き方に、餓死することも覚悟した上での《他力本願》の一つの成就した姿を、幼児の私は親鸞を知る遥か以前に知つてしまつたのかもしれず、その蟻地獄の、一方である種潔い生き方は、尚更、蟻地獄を興味深き《正覚》した生き物として、しかし、当の私本人はそれとは露知らずに脳裡に焼き付けることになつたのかもしれなかつた。
――蟻地獄――。
蟻地獄にとつて餓死は普通にある当たり前のことであることが解かると、私にとつて蟻地獄はそれだけで既に餓鬼道を生きる愛おしい生き物に成り果せたのであつた。
――蟻地獄――。
この愛しき生き物の生き方は幼少の私にとつて特別な衝撃を与へ、その衝撃の影響の大きさはずつと私の脳裡に留まり続けたまま、後年はつきりと言葉で知ることになつた《他力本願》を此の世で実践して見せる《正覚者》として、また、蟻地獄は他の生き物と比べて別格の生き物として、私に記憶されることになつたのであつた……。
その日から私の闇に包まれた漆黒の頭蓋内にも、今もその陥穽たる罠に引つ掛かり落つこちる、さながら蟻と化した《異形の吾》をじつと待つ蟻地獄が巣食つてゐるのである。その蟻地獄はその姿を決して私の頭蓋内に現はすことはないのであつたが、隙あらば《吾》自体を喰らふべく、その畏怖すべき気配ばかりを強烈に漂はせながら闇黒の私の頭蓋内に身を潜ませてゐたのであつた。
ところで、その日、すつかり蟻地獄の虜になつてしまつた幼少の私は、興奮が収まらぬまま布団に潜り込み、電燈が消された闇の子供部屋の中、じつと闇を見据ゑてその日の出来事の一部始終を反芻してゐた筈である。而して幼少の私の頭蓋内の闇には唯一つの疑問が蝋燭の炎の如く灯つてゐたに違ひないのである。
――何故蟻地獄は餓死を覚悟した上であんな小さな小さな小さな擂鉢状の罠に自身の生存の全てを委ねてしまつたのであらうか?
幼少の私にとつてその疑問は疑問として無理からぬのであつたが、しかし、その答えは意外と簡単なのである。蟻地獄が蟻を追つて蟻を捕獲する道を選んだとすると、それは蟻地獄にとつては最も確実至極な自殺行為に外ならないといふことなのである。蟻程恐ろしい昆虫は此の世に存在しないのである。蟻にかかれば此の世の森羅万象が蟻の餌になつてしまふ程に蟻の団体としての力は凄まじいのである。
蟻の巣の出入り口を一日眺めてみれば、蟻が生きとし生けるもの何でも餌にして、自身一匹では到底歯が立たぬ相手も数の力で圧倒し餌にしてしまふその凶暴振りに感嘆する筈である。その蟻を主食として選んだ業として蟻地獄はその身を地中に潜ませ、単体としての蟻を捕まへる外に蟻を餌とするのは不可能なのである。その餌を追ふことを《断念》し、此の世の《最強》の生き物たる蟻を餌にしてしまふその図太さの上に餓死をも厭はぬ餓鬼道をその存在の場にした蟻地獄のその徹底した《他力本願》ぶりは、私に一つの《正覚者》の具現した例証を齎すのであつたが、しかし、その此の世の《最強》の《正覚者》が此の世に隠微にしか存在しないその有様は、何か《存在》そのものの在り方、若しくは《物自体》の有様を暗示してゐるやうに思へなくもなかつたのである。爾来、私の頭蓋内の闇には前述したやうに私自体を喰らはうとその身を闇に潜めてゐる蟻地獄が巣食ふことになつたのであつた。
それにしても蟻地獄が餓鬼道に生きるのは蟻を餌にしたことに対する因業にしか思へぬのは何故なのであらうか? そして、蟻の存在が蟻地獄を此の世に出現させた因に外ならないやうな気がしてならないのは何故なのであらうか? つまり、此の世の摂理とは、それを因果応報と呼ぶとすると、《存在》には必ず《存在》を餌にする蟻地獄の如き《地獄》がその陥穽の大口をばつくりと開けて秘かに《存在》が堕ちるのを待ち構へてゐるに違ひないのである。
《存在》が一寸でもよろめいた瞬間、《存在》は蟻地獄の如き底無しのその奈落へ堕ちて、《神》に喰はれるか、或ひは《鬼》に喰はれるか、或ひは《魔王》に喰はれるか、将又(はたまた)永劫にその奈落に堕ち続けるかするに違ひないのである。それをパスカルは《深淵》と呼んだが、此の世に《存在》してしまつたものは何であれ《吾》を強烈な自己愛の裏返しで憎悪し、《吾》以外の《何か》へ変容することを絶えず強要されながら、しかも、《存在》の周辺には底無しの《深淵》が犇めいてゐる《娑婆》を生きる外ないのである。其処で
――それでは何故《存在》が《存在》するのか?
といふ愚問を発してみるのであるが、返つて来るのは無言ばかりである。そしてこの無言なる《もの》が曲者なのである。ドストエフスキイは、この無言なる《もの》が全てを許してゐると仮定して《主体》なる《存在》のその悍(おぞ)ましさを巨大作群に結実させてゐるが、さて、その無言なる《もの》を例へば《神》と名指してみると、《存在》はその因果応報の円環から遁れる術をドストエフスキイ以上に人類に提示した人間がゐるかと問ふてみるのであるが、答へは未だに「否」としか答へられない憾みばかりが残るのである。それ故に先の愚問に対する答へは自身で発するしかないのであるが、私の場合、今もつて何も答へられず、唯、私の頭蓋内の闇の中に《吾》を、つまり、《異形の吾》を喰らふ蟻地獄を潜ませるのがやつとなのである。
高気圧の縁を高気圧からの、若しくは自己以外の外部の風に流されるままにしか動く外ない颱風は、一方で颱風内部では猛烈な風雨が渦巻く颱風のその動きは、しかし、如何見ても颱風が自律的に動いてゐるとしか見られない私の心模様を映す形で《無言》の《神》に対峙する《吾》は、自己内部の猛烈な風雨に比べると羸弱(るいじやく)でしかない外部のその風に流されてゐるに過ぎない颱風が恰も自律的に動いてゐるやうに見えてしまふ如く、《神》から《自由》を与へられてゐる錯覚の中に、換言すれば、《神》から吹く心地良き風には無知を装ひその風を風ではなく敢へて《自由》と名付けては嬉々として、その《自由》を満喫するべく更なる《自由》を求めることで返つて颱風の如く外部から吹き寄せる微風に過ぎぬ《自由》に呪縛されてゐるにも拘はらず、さうとは全く気付かなかつた《吾》自身が単なる外部の心地良き微風に過ぎぬ《自由》に流されてゐるだけといふ錯誤の中に憩つてゐる大馬鹿者に過ぎないことに不意に気付いてしまふと、《吾》といふ生き物は狼狽(うろた)へるのである。その狼狽へ方は数の力を借りると此の世で最強な《存在》にも拘はらず、しかし、蟻地獄に落ちると羸弱な《単独者》に為り果てて、正に一匹の羸弱な蟻に変化してしまふ如き《存在》なのであつた。
作品名:蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ 作家名:積 緋露雪