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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ

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 それは朽木に巣食ふ白蟻をちよつとばかり膨らませたやうな、或ひは鋏虫(はさみむし)の一種のやうな、或ひはダニの一種のやうな、或ひは蜻蛉(とんぼ)の幼虫であるやごに姿形が似てゐることから蜻蛉の一種の幼虫のやうな、将(はた)又(また)私が知らない鍬形(くわがた)虫(むし)の新種のやうな、兎に角奇妙でゐて底知れぬ魅力に富んだ姿形をしたその生き物が乾いた土の中から蟻やダンゴ虫等の虫の死骸と共に現はれたのである。
――何だこれは? 
 未知の生き物との遭遇は何時も胸躍る瞬間である。唯、幼少の私はその毛虫の如き、或ひは、天道虫(てんとうむし)の幼虫のやうな、将又蜻蛉の幼虫たるやごにも似たその姿形を見た刹那、蛾の仲間か、或ひは蜻蛉か、或ひは天道虫や甲虫(かぶとむし)や鍬形虫と同じやうに、何かの昆虫の幼虫であることは直感的に見抜いた筈である。
――何だこれは? 
 掌中に残つた土に姿を隠さうと本能的にもそもそと後じさりするその未知の虫の未知の幼虫をまじまじと凝視しながら何度も私は心の中で驚嘆の声を上げた筈である。
――何だこれは? 
と。次に私は、多分、恐る恐るその小さな未知の生物を触つたに違ひない。そしてそれは思ひの外ちよこつとばかり柔らかいので再び
――何だこれは? 
と驚嘆の声を心中で上げた筈である。さうして私はその未知の生き物を眺めに眺めた末に元の乾いた土の上にその未知なる生物を置き、将又まじまじとその未知なる生き物の所作を観察した筈である。その未知なる生き物はあれよと言ふ間に土の中に潜り、小一時間程そのまま眺め続けてゐるとその生き物が平面の平らな乾いた土を擂鉢状に鋏状になつた頭部で跳ね上げながら巧みに作り上げる様を飽くことなく眺め続けた筈である。それにしても幼児とは残酷極まりない生き物である。知らぬといへ、蟻地獄の餌である蟻等の地を這ふ昆虫がその小さな小さな小さな擂鉢状の乾いた土の穴凹に落ちることは蟻地獄にとつて正に僥倖に違ひなく、蟻地獄とは何時も餓死と隣り合はせに生きる生き物であつたので、蟻地獄の巣が少しでも壊れると温存しておかなければならぬ体力を消耗してまで蟻地獄は土を跳ね上げて餌を穴凹の底に落としにかかる労役に違ひない体力を消耗することを敢へてするにも拘はらず、幼少の私は、やつと出来上がつたばかりの擂鉢状のその小さな小さな小さな蟻地獄の巣を再びちよこつと壊しては、再度餌が蟻地獄に落ちたと勘違ひしてその乾いた土の穴凹の底で土を跳ね上げては虚しき労役をした挙句に再び擂鉢状に乾いた土を巧みに作り上げるといふ、幼少の私にはこれ程蠱惑的なものはないと言つたその蟻地獄の一挙手一投足の有様をみては、再びその蟻地獄をちよこつと壊すことを何度となく繰り返しながら、何とも名状し難い喜びを噛み締めてゐた筈である。
 最初に土を掬ひ上げた時の蟻等の昆虫の死骸が蟻地獄の餌であることはその日満足の態で家に帰つて昆虫図鑑で調べるまでは解からなかつたに違ひない幼少の私は、その時、その周辺に密集してゐた蟻地獄の巣を次から次へと壊しては蟻地獄にその擂鉢状の乾いた土で出来た巣を修復させるといふ《地獄の責め苦》を、知らぬといへ蟻地獄に使役させることに夢中になつてゐたのであつた……。幼少の私にとつては蟻地獄が土を跳ね上げる様が力強く恰好よかつたに相違なく、私はその後も何度も何度も擂鉢状の蟻地獄の巣を壊しては蟻地獄が頭部で乾いた土を跳ね上げる様を見てはきやつきやつと心中で歓喜しながら蟻地獄に対して地獄の労役をさせ続けたのであつた……。
 家に帰つても未だ興奮冷めやらぬ筈であつたであらう私は、家に帰り着くや否や直ぐに昆虫図鑑を取り出して今さつき出遭つたばかりの未知なる生き物が何であるのかを調べ始め、さうして、遂にあの未知なる生き物が何と蟻地獄と名付けられてゐるのを昆虫図鑑の中に見つけた刹那、「あつ」と胸奥の何処かで叫び声を上げたに違ひないのである。
――蟻地獄――。
 私の大好きな昆虫の一つであつた蟻の而も地獄! 何といふ名前であらうか。多分、幼少の私は何度も何度も蟻地獄といふ名を胸奥で反芻してゐた筈である。
――蟻地獄――。
 その名は様々な想念を掻き立てるに十分な名のであつた。蟻地獄といふ名は今考えても何やら此の世ならぬ妖怪の名のやうな奇怪な名なのであつた。名は体を表わすと言へばそれまでなのであるが、それにしても蟻の地獄とは何としたことであらうか。幼児の私はその名すらも知らなかつた《虚無》若しくは《虚空》といふ言葉が持つ《魔力》と同じやうなものを、それとは名状し難いとはいへ、直感的に、または感覚的に蟻地獄と名付けられたその生き物に感じ取つてしまつた筈である。幼少とはいへ、私は茫洋とだが直感的には掴み得る蟻地獄といふ名に秘められた此の世にぽつかりと空いたあの《深淵》の形象をそれとは微塵も知らずに蟻地獄という言葉に見出してしまつた筈であつた……。
――蟻地獄――。
 それは此の世と彼の世を繋ぐ呪文の如く突如として私の眼前に現われたのであつた。
――蟻地獄――。
 幼児の私は既に地獄とは何か知つてゐた筈である。さうでなければこれ程までに蟻地獄に執着する筈はなかつたに違ひないのである。それは例へば親が深夜の寝室で性交してゐる情景を目にしたかの如く、何やら見てはいけないものを見てしまつた含羞をも併せ持つた言葉として幼児の私に刻印されたのであつた。
――蟻地獄――。
 それは此の世では秘められたままでなければならぬ宿命を持つた存在として幼児の私には感じ取られたのかもしれなかつた。それ程までに《蟻地獄》といふ言葉は何とも不思議な《魔力》を持つた言葉なのである。その後何年も経なければ知りやうもなかつた《深淵》といふ言葉が、蟻地獄のそれと気付いたのはパスカルの「パンセ」を読んだ時であつたが、幼児の私は、《深淵》といふ言葉を知る遥か以前に《深淵》に対するある種くつきりとした《形象》を、蟻地獄を知つたことで既知のものとして言葉以前に直感的なる《概念》――それを《概念》と呼んでよいのかどうかは解からぬが――、しかし、《概念》若しくは《表象》若しくは《形象》等としか表現できないものとして私の脳裡の奥底にその居場所を与へられることになつたのであつた。
――蟻地獄――。
 蟻やダンゴ虫等、地を這ふ生き物を餌としてゐた蟻地獄の生態を知るにつけ、成程、蟻地獄を捕まへるべく蟻地獄の巣ごと手で掴み取つた時に、蟻やダンゴ虫の死骸も一緒に掌の上にあつたのも合点のいくことであつた。それにしても蟻地獄の生態は奇妙なものであつた。何故蜘蛛の如く罠を仕掛けてじつと餌があの小さな小さな小さな擂鉢状の罠に落ちるのを待ち続ける生き方を選んだのか、幼児の私は知る由もなかつたが、しかし、その生き方にある種の《断念》の姿を、もつと態よく言へば《他力本願》の姿を見たのかもしれなかつた。