蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ
――さう、知らされるのだ。自意識が肥大化する思春期を過ごし、やがて《吾》を持ち切れぬ事にはたと気付いた《吾》のみが、「存在とは何ぞや!」と無言の世界に対して問ひを発する。しかし、《吾》はどうしやうもない屈辱感に苛まれながら、無言の世界に対して名指し始めるのだ。その段になると《吾》は、やうやつと《吾》が特別な存在でない事を、つまり、その他のものとして同等の単に名があるのみの存在でしかない事を心底思ひ知らされるのだ。
――其処には絶望しかないんだらう?
――さう、絶望があるのみ。だから《吾》は哲学に、文学に、信仰に、或ひは科学に縋る。さうやつて《吾》は《吾》を誤魔化すのだ。
――だが、《吾》はそんな中途半端な状態に堪へ切れず、《吾》を虐めながら弄くり回すのだ。
――へつ、それでも何にも答へは見つからないぜ。
――そんな事は百も承知さ。承知しながら、《吾》を酷使せずにはをれぬ。さうして《吾》は《吾》を破壊し、廃人になるのさ。廃人になりさへすれば、後は絶望も、苦悩も、何にもありやしない。
――しかし、廃人なるまで、《吾》を虐め抜いた《吾》を知らぬぜ。
――当然さ、廃人になる前に、殆どの《吾》は自死を選んでゐる筈さ。
彼はふうつと一息吐くと、何処か顔が引き攣つた嗤ひをその顔に浮かべ、眼窩に爛爛と輝く眼で、虚空をぢつと眺めたのであった。彼には、果たして虚空に何が見えてゐたのだらうか。多分、それは、観念がある異形の姿を纏つて虚空に出現し、共食ひをしてゐる悍ましい光景だつたのかもしれなかった。
――それではお前は何なのかね?
――廃人さ。
――自ら廃人と言ふのは、廃人でない証拠だぜ。
――しかし、《吾》はとつくの昔に廃人になつてしまつたのだ。何故つて、《吾》は到頭《吾》を持ち切れなかつたのだ。だから、今は、言葉にならないげつぷを吐くのみのしがない存在に成り下がつちまつたのさ。最早、世界に対して、この無言の世界に対してぐうの音も出ぬ《吾》は、只管《吾》を
呑み込む事でやうやつと《吾》は《吾》である事を自覚させてゐるのさ。
――其処には自同律の不快は存在するのかい?
――いや、もうないね。感覚が全て麻痺してしまひ、快不快を感ずる感覚など全て失つちまつたのだ。
――何故、 其処まで、自己を追ひ込んだのかね?
――さうせずば、俺は此の世で生き残れなかったのさ。何としても生き残るべく、唯生き残る事にのみを廃人になりながらも縋つたのだ。でも、死んだ方がどれだけ楽か! しかし、この楽がいけない。楽こそ滅亡の端緒なのだ。楽したいが為に死を選んでも、それは終始自己満足に成り下がり、誰も、その死したものの観念などに思ひを寄せぬ、残酷な世界の一面が見えてゐたからね。
――それだけ語れるのであればお前が廃人な筈はないぜ。
――どうもご勝手に。しかし、俺は最早此の世界に対して無抵抗な輩の一人にしかなり得ぬのだ。哀しい哉、思春期に抱いたこの世界に対峙する《吾》の存在と言ふ大仰な夢は露と消えたのだ。
――それが廃人、へっ、それがお前の行き着いた結論かね。
――だから俺はげつぷをしているのさ。この何とも不快なげつぷをね。
――舌の乾かぬうちに不快と言ったな。まだ、快不快の感覚は残つてゐるんぢやないかね?
――いや、 もう快不快の感覚は残つてゐない。げつぷを不快とか感じるのは感覚ではなく、俺の観念の記憶に過ぎぬのさ。遠い昔の記憶にげつぷは不快だ、といふ記憶が残つてゐて、その残滓がげつぷは不快だと思はせてゐるに過ぎぬ。
――へつ、嗤はせるな! お前の何がお前をして《吾》を潰滅するに任せたと言ふのだ。お前は、哀しい哉、まだ、此の世に存在する。お前は潰滅はしてゐないのだ。
――唯、俺は死者の代弁者にはなり得るかも知れぬとは思つてゐるがね。
――それは思ひ上がりに過ぎぬぜ。お前は、生者であるが死者ではない。
――しかし、耳を劈く死者どもの断末魔ははつきりと聞こえるのだ。そして、死者の多くは、自らの死を受容してゐないんだぜ。をかしいだらう。死者は大概己の死を知らぬ生者として此の世を跋扈してゐるんだぜ。ほら、其処に自らの死を知らぬ死者の霊が漂つてゐるぢやないか。へつ。
こんなひそひそ話が世界のあちこちで毎時行はれてゐる……。それがぎわめきとなつて俺の耳を劈くのだ。
(完)
蟻地獄
それは近所の神社の境内で罐蹴りか、或ひはかくれんぼをしてゐた最中に不意に高床の社の床下に隠れやうとした刹那に見つけてしまつた筈である。それが薄羽蜉蝣(うすばかげろふ)の幼虫である蟻地獄と名付けられたものの在処であつたことは、家に帰つて昆虫図鑑で調べるまでは解からなかつた筈なのに、幼少の私はその擂鉢(すりばち)状をしたその形状を一瞥しただけで一辺に惚れ込んだ、つまり首つたけになつたのは間違ひないことであつた筈である。其処には、丁度雨が降りかかるか降りかからぬかの際どい境界の辺りに密集して、擂鉢状の小さな小さな小さな穴凹が天に向かつて口を開けて並んでゐたのであつた。さて、さうなつたなら罐蹴りかかくれんぼかは判然としないが、どちらにせよ、そんなものはそつちのけで未知なる蟻地獄を調べることに夢中になつたのは当然の成り行きであつた筈である。それは、多分、こんな風に事が運んだ筈である。先づ、擂鉢状の蟻地獄をちよこつと壊してみるのである。さうして、そのままちよこつと壊れた蟻地獄をじつと凝視したままでゐながら己でははつきりとは解からぬが何かが現はれるのを仄かに期待してゐる自分に酔ふ如くにそのまま凝視してゐると、案の定、其処は未知なる生き物の棲み処で小さな小さな小さな擂鉢状の穴凹の底の乾いた土がもそつと動いたかと思ふと、直ぐ様餌が蟻地獄に落ちたと勘違ひしてか、蟻地獄の主たる薄羽蜉蝣の幼虫が頭部で土を跳ね上げる姿を幽かに見せて、暫くするとそのちよこつと壊れた蟻地獄を巧みにまた擂鉢状に修復する有様を目の当たりにした筈である。幼少の私は、思ひもよらずか、或ひは大いなる期待を抱いてかは如何でもよいことではあるが、しかし、その擂鉢状の乾いた土の中から未知なる生き物が出現したのであつたから歓喜したのは言ふまでもない。さうなつたからには修復されたばかりの擂鉢状をした蟻地獄をまたちよこつと壊さずにはゐられなかつた筈である。今度はその小さな小さな小さな擂鉢状をした乾いた土の穴凹に棲む未知なる生き物たる蟻地獄を捕まへる為である。幼少の私は、特に昆虫に関しては毛虫やダニや蚤やゴキブリに至るまで素手で捕まへなくては気が済まない性質であつたから、未知なる生き物を捕まへようとしたのは間違ひのないことであつた。期待に反せず蟻地獄のその小さな小さな小さな乾いた土の穴凹の底がもそつと動いた刹那、私はがばつと土を掴み取り、その擂鉢状の穴凹に棲んでゐる主を乾いた土の中から掬ひ上げたのであつた……。
作品名:蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ 作家名:積 緋露雪