蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ
――《吾》が《現在》の主ではなくて、《存在》は何だといふのかね? 先にお前は《存在》には《念》が宿ると言つた筈だが、その《念》こそ《吾》の正体ではないのかね?
――さうだとしたならば?
――つまり、《吾》は《吾》といふ《念》を絶えず呑み込む事で《五蘊場》に棲息する《異形の吾》共に《吾》といふ餌を与へて飼ひ馴らしてゐるといふ事か。――ふつ。その《異形の吾》共を飼い馴らしてゐる《もの》とは一体何かね?
――当然、《吾》さ。
――それぢや、全く矛盾してゐるぢやないかね?
――矛盾で結構ぢやないか。ふはつはつはつはつ。
――それぢや、主従関係が転倒してゐるぜ。つまり、《吾》は《吾》といふ《念》を呑み込む苦行を断行せざるを得ぬ故に、《吾》とその呑み込んだ《吾》といふ《念》は齟齬を来たし、それにもかかはらず、その《異形の吾》共の生贄として、否、人身御供として《吾》を捧げ、その《異形の吾》共の餌でしかない《吾》が、一方では、《異形の吾》共の主と来てゐる。一体全体お前が言ふ《吾》と《異形の吾》とは何なのかね?
――実在する化け物――かな。
――ぶはつ。《吾》が化け物かね? 《異形の吾》共が化け物かね?
――しかし、どちらも《吾》といふ《念》を喰らひ、或るひは無理矢理呑み込んでゐる。
――つまり、《念》は無尽蔵といふ事かね? 馬鹿らしい!
――《吾》が、《念》においてのみ《吾》からの出入りが自由としたならば?
――《吾》からの出入りが自由? それは魂が憧れ出るといふ事かね?
――さう。源氏物語の世界だ。そして、《吾》といふ《念》は、一人称であり、二人称であり、三人称であり、四人称であり、五人称である、云々、としたならば?
――何を言つてゐるのか解かつてゐるのかい? 四人称、五人称など想像出来る代物ではないぢやないか。
――さうかね。時間を自在に行き交ふ、つまり、∞の時間次元を自在に移動可能な《もの》を四人称、そして、《孤》=《全体》といふ曲芸が出来ちまふのが五人称と、色色と想像出来るもんだぜ。
――何を! 時間を自在に行き交ふのは単に記憶を辿り、或るひは、『ああなりたい』といふ未来の《吾》を想像する、いづれにしても単に《吾》の夢想でしかなく、また、《孤》=《全体》とは、現代のIT社会では既に実現された仮想空間の事でしかないのぢやないかね?
――ほらほら、四人称、五人称といふ言葉を表白した途端に様様な思索が渦巻く様相を呈してきたぢやないか。
――それがどうしたといふのかね?
――初めにLogosあり。
――ふつ、創世記かね? つまり、言葉が生まれると、それに派生する思索が山のやうに連なつて来るだらう?
――否。その現象が元元《存在》してゐた《もの》に言葉を与へるだけで、頭蓋内の闇でずつと眠り続けた或る《もの》がむくりとその頭を擡げ、そいつが、頭蓋内の闇で黙考を始める。つまり、《異形の吾》共の親玉が、不意と思考を始めるのだ。さうすると《吾》といふ《念》は歓喜する。
――歓喜かね? 懊悩と違ふのぢやないかね?
――どちらでも結構ぢやないか。《異形の吾》共の親玉が目覚めその頭を擡げたのだからな。そして《異形の吾》共の親玉が目覚めると、一息で《異形の吾》共を呑み込んで『ぶはつはつはつはつ』と高らかに哄笑する。
――つまり、対自の出現かね?
――否。《異形の吾》だ。そして、《吾》は自問自答をその《異形の吾》の親玉と始め、《吾》はその魅惑に幻惑され、その対話から一時も離れられなくなる、《吾》は最早其処から遁れる事が出来ない程に、《異形の吾》との対話を蜿蜒と繰り広げる事に為る。
――それは暇人のやる事だ。多くの《存在》にはそんな暇などないのが実情だぜ。
――ところが、一度《異形の吾》共の親玉がその頭を擡げ、《異形の吾》共を一飲みすると「げつぷ」をするのだ。
――また「げつぷ」ね。
――その「げつぷ」が《吾》の魂を揺さぶつて仕方がない。さうなると、《吾》は《異形の吾》の親玉とさしで話をせずにはをれぬのだ。
――そして、その《異形の吾》の親玉は《吾》をも呑み込むのだらう?
――ああ。《吾》も一飲みで呑み込まれる。そして、《異形の吾》の親玉は、「げつぷ」でなく、哀しい「しやつくり」を始めるのだ。
――「げつぷ」に飽き足らず今度は「しやつくり」かね? しやつくりを始めた《異形の吾》は、若しくは《吾》は、不快でならぬだらう?
――さう。不快だ。《吾》が《吾》に抱く此の不快は、果たせる哉、《生》の起動力なんだぜ。
――《生》の起動力? つまり、それは、《吾》といふ《存在》の根源の処に、《吾》に対する不快が必ず《存在》し、《吾》に対する不快なくしては、此の諸行無常の《世界》では生きられぬといふ事だね? それが変容の受容なんだね?
――此の世はそんなに甘く出来ちやゐないぜ。唯、《吾》の根源に不快といふ感情が《存在》する故に、《吾》は、時時刻刻と変容する《世界》で《生》を繋いで行けるのさ。
――つまり、《吾》は《吾》の変容を甘受出来る《もの》なのだらう?
――否。その逆さ。時時刻刻と変容する諸行無常の《世界》において、《吾》のみが未だに《吾》である事のどうしやうもない不快に、《吾》は《吾》に、若しくは《異形の吾》共に我慢する為に《吾》は《吾》を呑み込み、そしてげつぷをする。そして、げつぷがこじれて、それは仕舞ひにはしやつくりとなる。
――くきいんんんんん――。
――では、そのしやつくりは《吾》にとつて何なのかね?
――《吾》が《吾》である事の悪足掻きさ。そして、その《吾》の齟齬は、《吾》も《異形の吾》共も甘受するしか術がないのさ。
――何の術かね?
――存続さ。
――別段、《吾》も《異形の吾》共も存続する必然はない筈だぜ。
――しかし、《吾》も《異形の吾》も自滅出来やしない。唯、《世界》が戦争状態とか自然が凶暴な牙を剥いてゐるとかいふ極限状態の《世界》においては別だがね。そんな状況下では《吾》は只管《生》を望む。
――《世界》に《死》の確率が増すと、それに反比例するやうに《吾》は《生》を求めるこの事象を何とする?
――何、さう言ふ極限状態は《吾》の内部では日常茶飯事の事でしかないさ。つまり、さういふ極限状態の《世界》に置かれた《吾》は、絶えず、内部で執り行はれてゐる《吾》を呑み込むと言ふ荒行が、外部に現実の《もの》として表出したと《吾》は本能的に感じて、《吾》は《吾》の存続を只管欣求するのさ。つまり、極限状態の《世界》に置かれる《吾》とは内外が反転したに過ぎぬのだ。
――さうすると、《吾》とは何時も自死の崖つぷちにゐるといふ事かね?
――さうさ。そして、その崖つぷちの底を覗き込んでは軽い眩暈に見舞はれてゐる。その上、しやつくりが止まらないと来てゐるから、始末に置けんのだ。しやつくりしてゐる《吾》が崖つぷちに佇立してゐるんだぜ。何時、その崖に落ちても不思議ぢやない。
――仮に《吾》が酩酊してゐるとしたならば?
――へつ、《吾》は何時も《吾》に酩酊してゐる《存在》ぢやないかね?
――すると、《吾》の存続とは何時も綱渡り状態といふ事かね?
――当然だらう。だから、《世界》には《死》が満ちてゐるのさ。
作品名:蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ 作家名:積 緋露雪