蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ
――簡単さ。《不自然》さ。
――馬鹿らしい! 《生》が《不自然》な筈はなからう。
――さて、その根拠は?
――現に私は此の世に生きてゐるからさ。
――高がそれだけの理由で《生》が《自然》な事と看做してゐるのかね? それでは一つ尋ねるが、何故に《生》なる《存在》はいとも簡単に《死》ぬのかね? 《生》である事が、特別な事だとは思はなぬのか! へつ、それは《生者》の傲慢といふ《もの》だぜ。だからお前には此の世に充謐してゐる《ざわめき》を耳障りな《もの》としてしか聞こえやしないのさ。少し耳を澄ましてみれば解かる筈だが、《有》、《無》、《虚》のげつぷたる此の世の《ざわめき》の一つ一つに喜怒哀楽が充謐してゐる事が解かる筈だがね。それが詰まる所、《存在》の《念》といふ《もの》だらう?
――つまり、お前は《念》といふ《もの》を情動の一種と看做してゐるのかい?
――それは、《念》に憑りつかれた《もの》が決めればいい事さ。
――へつ、お前もまた、《吾》といふ《念》が憑りつゐた《存在》だらう? ならばお前は《念》を何と看做してゐるのかね?
――《生》の起動力さ。
――ぶはつ。《生》の起動力と来たもんだ! 何を甘つちよろい事をほざいてゐるのかね?
――ならば逆に尋ねるが、お前は、この《ざわめき》、若しくは《念》を何と看做してゐるといふのかね?
――へつ、《死》の起因さ。
――はて、それは裏を返せば《生》の起動力と同じ事ぢやないのかね? つまり、《生》とは絶えず《死》へ向かつてまつしぐらに進む《もの》だらう?
――だが、此の世は、《生者》に比べれば、《死者》と未だ出現せざる未出現の《未来者》の方が圧倒的な数で、《生者》は多勢に無勢で、《死》の、若しくは《未来》の論理によつてのみ現在を生きてゐるのぢやないかね?
――成程。《生》は《死》、若しくは《未来》の理で《存在》し、そして、呻吟し、《存在》は声為らざる《ざわめき》を発してゐるといふ事か。
――つまり、《生》が《死》、若しくは《未来》の理に律せられてゐるといふ事は、《過去》に《死》した《もの》の理に従つてゐるといふ事で、つまり、《生》は、《過去》と《未来》の「間」に《存在》する《もの》で、それが故に呻吟せずにはをれず、絶えず《吾》を呑み込む不合理を為す事で、此の世はそんな呻吟の《ざわめき》に満ち満ちてゐるのではないのかね?
――その考へ方が既に使ひ古された古く黴臭い思考法なのが気が付かぬのか。時間は決して一次元の《もの》ぢやないぜ。何度も言ふが《個時空》の考へを持ち出せば、時間もまた、否、時空間もまた∞次元でしかその本当の姿形を現はしやしないぜ。
――すると、此の世の《ざわめき》もまた∞次元で或る言語として立ち現はれるといふのかね?
――ああ。
――それぢや、此の世といふのは、∞次元へと至る為の跳躍板、つまり、未出現の∞次元の《世界》の礎へとなる単なる「過程」に過ぎぬといふ事かね?
――当然だらう? そもそも《未来》は《過去》に、《過去》が《未来》に簡単に一変する此の世の理は、《未来》と《過去》がくんずほぐれず諸行無常を演出してゐるのさ。
――しかし、さうとはいへ、此の世に《存在》しちまつた《もの》は、《存在》したが故にそれに対して理路整然とした理を求めずにはをれぬのぢやないかね?
――では、一つ尋ねるが、《存在》、ちえつ、それを《生》と言ひ換へれば、《生者》は《生者》の理をうんうん唸りながら捻出出来れば、《生者》はそれで満足すると思ふかい?
――否。
――ならば、《存在》は此の世の理、つまり、諸行無常に身を任せるのが一番理に適つてゐるだらう。
――さうかね? 実際の処、《存在》は諸行無常に身を任せたがつてゐると思ふかい?
――ふむ。
――《存在》が最も嫌悪してゐるのが諸行無常だらう?
――ふむ。さうさねえ。《存在》は諸行無常を嫌悪してゐる……か。つまり、それは、《存在》は常に《現在》に留め置かれてゐる事が我慢ならぬといふ事だらう? そして、それは森羅万象、皆、同じ筈だぜ。森羅万象が全て《現在》に留め置かれる故に諸行無常の世が生じてゐるのではないかね?
――《存在》が留め置かれるからと言つて《現在》は、しかし、止まつてやしない筈たぜ。或る《存在》が言ふ《現在》は、《他》にとつては《未来》か《過去》なのは《個時空》を持ち出せば解かるだらう? しかし、《吾》にとつては常に《吾》は《現在》に留め置かれ、そして、《吾》にとつては交換可能な外界の《未来》と《過去》から隔離されてゐる。
――否! 《存在》は成程、《現在》に留め置かれてゐるが、しかし、その内界では《未来》へも《過去》へも自在に行き来してゐるぜ。
――つまり、頭蓋内の脳といふ構造をした《五蘊場》では因果律は壊れてゐると?
――否、自在なだけさ。別に因果律は壊れちやいない。その証左に《存在》は絶えず《現在》にあるぢやないか。
――だから、《存在》は《ざわめく》のだらう? 「何故に《吾》は《現在》にあらねばならぬのか?」と。
――それさ。それ故に《吾》は《吾》をごくりと呑み込んで、《吾》が《吾》に齟齬を来たしてゐる故に、《五蘊場》に犇く《異形の吾》共が、一斉に《ざわめく》のさ。何故つて、《吾》が《吾》である事を強ひられる事程、《存在》が忌避してゐる事はないからね。とはいへ、《吾》は《吾》として《現在》に留め置かれる。其処で一つ尋ねるが、《現在》に留め置かれる宿命にある《存在》は、何故に《吾》なのかね?
――何を今更。それは今まで散散話して来ただらう。
――といふと?
――つまり、《吾》が《吾》として《現在》に留め置かれる事は、詰まる所、「単独者」、若しくは《孤》として《存在》する《吾》足る事を、《吾》の魂に刻み込む儀式なのさ。さうして、《吾》を魂に刻み込む際、それは《吾》を悶絶させる苦痛で《吾》は《ざわめく》外ないのさ。
――くきいんんんんん――。
――この耳障りな《ざわめき》は《吾》が《吾》を呑み込んだ時のげつぷではなかつたのぢやないかね?
――さうさ。げつぷさ。
――それでは一つ尋ねるが、《五蘊場》は《存在》全てに賦与されてゐる《もの》なのかね?
――勿論。「現存在」では脳といふ構造をしてゐるが、意識が宿る《場》があれば、其処はもう《五蘊場》なのさ。
――すると、この耳障りな《ざわめき》と《五蘊場》との関係は如何様な《もの》なのかね?
――ふつ。つまり、《吾》が《吾》を呑み込んだならば、《五蘊場》を根城に《存在》全体に犇く《異形の吾》共、つまり、去来(こらい)現(げん)を自在に行き交ふ《異形の吾》共は、その呑み込まれた《吾》を喰らふ為に群がり、さうして、《吾》をすつかり喰らつた時に、《異形の吾》共は満腹の態でげつぷを彼方此方で発するのさ。そのげつぷは当然、《吾》には堪へ難い《もの》で、そのげつぷが耳障りがいい筈がないぢやないか!
――すると、《吾》とは、そもそも《異形の吾》共の餌かね?
――さうさ。お前は《吾》を一体何だと思つてゐたんだい? まさか、《存在》を支配下に置く「理性」と「悟性」を統覚した何かだとでも夢見てゐたんぢやないだらうな?
作品名:蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ 作家名:積 緋露雪