蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ
――だが、霊なのかどうかは知らぬが、《死者》の《念》を引き受けた《生者》がゐるとして、その《念》にもまた、生存競争が確実に《存在》する筈で、その証左に数多の《死者》、そして、未だ生まれ出ぬ《未来人》の《念》は、幾人かの限られた《存在》に象徴され行く。その《念》は、例へば書籍となつて現在に引き継がれてゐるが、それは絶えず《生者》の厳しい目に晒されて、《死者》の《念》は取捨選択されて、例へば、現在、膨大な数の本が出版されてゐるが、そのうち一体何冊が、百年後、千年後に、そのお前が言ふ《念》を残してゐるかどうか高が知れてゐるのぢやないかね?
――哀しい哉、その通りさ。現在の《生者》が全て《死者》になつた時点で、《念》として残るのは、微微たる《もの》だらう。だから、尚一層、残つた《念》は、《生者》への憑依は強烈で、《生者》を覚醒させる起爆剤になるだけの物凄い力を秘めてゐるのさ。だから、現在、読み継がれてゐる作品の《念》はそれはそれは強烈で、絶えず《生者》を鼓舞して已まないのさ。
――成程。それ故に、故人に対する根強い信仰が生まれ、そして、現在を生きる現代人は宗教のために戦争が出来るといふ訳かね? そんな《念》なら滅んだ方がましぢやないかい?
――だが、《生者》は誰も未来を知らない。此処で《個時空》の考へ方を当て嵌めると過去は未来に簡単に反転出来るので、それ故に、故人の生き方に範を求め、そして、《吾》を見出すのさ。
――《死者》の《念》を毒とも良薬とも全く解からずに《生者》はそれを呷るしかないのか――。
――《死者》の強烈な《念》を毒にも良薬にもするのはひとへに《生者》にかかつてゐる筈だがね。
――つまり、基督や仏陀やムハンマドやヤハウエやブラフマー神やヴイシユヌ神やシヴア神などの神仏として祈りの対象になつてゐる少数の《もの》の《念》は、《生者》の心を揺さぶらずにはいられぬ程に強烈で、《生者》はそれら《死者》や《神》の言葉に帰依する事で、不合理極まりない現実を生き続けてゐるとするとだ、《死者》の《念》が取捨選択されるとはいへ、それは、或る象徴的な《死者》の《念》に収斂するが、しかし、その背後には、連綿と数多の人びとに祈り続けられてきたといふ数多の《念》が隠されてゐて、《生者》はさうして残された《死者》の言葉の重みを感じずにはゐられず、それ故に、信仰が生じるといふ事か。ふむ。だが、この不合理極まりない《ざわめき》は一体全体どうした事なのだらうか? もしかすると、《死者》もまた《吾》を探して、その《吾》をごくりと飲み干したいが為に、この不快な《げつぷ》を発してゐるのではないだらうか?
――仮にさうだとしてどうしたといふのかね?
――さうすると、此の世に《吾》は元来《存在》していないのぢやないか? どう思ふ?
――ふつふつ。ぢやあ、お前は、お前の事を《吾》と思はないのかい?
――私は、己の事を半分は《吾》かもしれぬが、残りの半分は《吾》以外の何かで、それは今の処全く解からず仕舞ひで、《吾》は《吾》にとつてこれまで《吾》であつた例がないのが、実際の処だ。
――それは当然だらう。《吾》が全宇宙史を通して確率《一》として《存在》した事はないのだからな。
――それは《神》に対しても当て嵌まる事かね?
――当然だらう。此の世に《存在》しちまつた《もの》全てが、大悟しない以上、《神》もまた下唇をくつと噛んで、地団駄を踏んでゐるに違ひないのさ。ふつ、ところが、《神》と大悟が結び付く事は、全くの誤謬でしかないのさ。なにせ、仏教に《神》はゐないのだからな。
――だから、尚の事、《存在》が《神》と同等に対峙するには大悟する外ないのさ。
――つまり、正覚、若しくは大悟した《もの》は《神》的な《存在》に為り得るとお前は看做してゐるといふ事か。ふつ、馬鹿らしい。それは詰まる所、《神》といふ《有》と正覚、若しくは大悟の《無》との対決に終始し、その有様は誰もが虚しい《もの》だといふ事を予想出来る下らぬ代物だぜ。
――果たして、さうなのかね? 《有》と《無》の対峙なんて、此の宇宙が《存在》する限り絶対にあり得ぬ筈だがね。
――つまり、或る《存在》が大悟し《神》と対峙した場合、此の宇宙誕生前、若しくは此の宇宙の死滅後の何かを垣間見する事が可能に為り得るといふ事かね?
――それは例へば物質と反物質とが出合ひ、発光して消滅するやうに、此の世ならぬ位相で、ぱつと光を発するが如くに一瞬にして《有》と《無》との対峙が終はり、そして何かを生んでしまふ端緒に違ひないのさ。
――何を馬鹿な! 現に《有》と《無》は此の世に確かに《存在》し、だからと言つて《有》と《無》が出合つた処で何にも生まれやしないぜ。それはお前のみのお目出度い独断だらう?
――ああ、さうさ。しかし、此の世の《存在》、つまり、此の世の森羅万象は、《無》の様相も包有してゐるのは間違ひないだらう?
――《無》ねえ。それはむしろ《虚》ではないかね?
――《虚》か。ふむ。因みに虚数i×零は零かね?
――零だ。
――つまり、それらの事から導き出される事は、《虚》対《無》といふ事象が此の世に起こり得るならば、未だ《存在》には人知を超えた事象が含まれてゐるといふ事かね。
――多分、《有》対《無》も、《無》対《虚》も、《有》対《虚》も、《存在》次第で如何様にでも変はる事象に違ひない。事象が如何様にも変はる故に《吾》は厳然と此の世に《存在》するのと違ふかね?
――つまり、《吾》の《存在》が《有》、《無》、《虚》の事象を此の世に生滅させてゐると?
――さう考へるのが自然だらう?
――ふむ。自然ね。その《自然》といふ概念が《存在》の陥穽と違ふかね? 最後の処で、《存在》は必ずと言つて言ひ程《自然》を持ち出すが、詰まる所、お前は《自然》といふ概念はあらゆる《もの》が道理に適つてゐる状態と考へての事かね?
――さあ、解からぬ。
――解からぬ? ふつ、それぢや、お前は、何も解からずに《自然》なる言葉を持ち出したのかね? ふつ、如何にも「現存在」たるお前らしい物言ひだな。ならば、一例として私の考へを直截的に言へば、《自然》程不合理極まりない《もの》はない!
――何故に?
――現にお前は己の《存在》に疑念を抱いてゐる。それ程不合理な事はないだらう?
――ふつ、《吾》が《吾》を取り逃がす、此の世の理……つまり、《自然》が不合理極まりないか。それはその通りに違ひないが、《存在》は森羅万象、《自然》である事を渇望してゐるが、それを成し遂げた《存在》が、例へば人間以外の動植物であるとは看做せないかね?
――否、人間以外の動植物も決して《自然》であつた事はなく、これからも《自然》である筈がない。
――何故、人間以外の動植物が《自然》でないのかね? ならば、《自然》とは何なのかね?
――つまり、《自然》とは《存在》が《存在》でなくなる理とでも言つておくかな。これならば人間以外の動植物も《自然》とは無縁な《存在》と言ふ事になるだらう。
――《存在》が《存在》でなくなる理が《自然》ならば、それは《死》の事ではないのかね?
――ふつふつふつ、ならば《死》が《自然》と言ふ事でいいだらう? 何か不満でも?
――ならば《生》は何なのかね?
作品名:蟻地獄~積 緋露雪作品集 Ⅰ 作家名:積 緋露雪