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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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闇へ堕ちろ

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人いきれの中で、吾は夢見で知らぬ人と今生で最後の邂逅をするやうにして合ひながら、ほら、しかし、最早、一瞥した見知らぬ人は既に私の記憶から忘れられてゐる。

ヒューヒューと風音を鳴らす吾の胸奥に隠れてから暫く立つ《吾》は、
只管孤独を恋しがるのだ。そして端倪すべからぬ存在に対しては終始穴に首を突っ込み、
恐怖の眼下に隠された何かの奥から鋭き視線ばかりがビームを放つ如くに前方の荒涼とした風景を眺めるのだ。

その渺茫たる抽象世界に果たして生命は生き得るのか。
やがてくる砂漠化した世界で
《吾》はゾンビとして墓から抜け出し、
夜な夜な悔し涙を流してゐるのだ。



卒倒

不意に意識が遠くなり、脊髄が痺れることで、
私の意識は私の預かり知れぬ領域にぴょんと跳躍するのだ。
さうして、吾は私の自意識から剥落する自意識から脱皮し
何物でもないニュートラルな自意識の様相で宙ぶらりんになるのだ。

このどっちつかずの有様にほろ酔ひ気分で上機嫌になり、
私が私であると断言できないこの眩暈の瞬間が
なんのことはない、吾が吾から遁走するいつものやり口なのだ。

眩暈にある吾は直にぶっ倒れることがはっきりと解ってゐるのであるが、
その僅かの時間がぐにゅうっと間延びし、
その短い時間のみ、吾は吾であることが言明できる。

この眩暈の時間はダリの絵の如く時計はぐにゃりと曲がり、
どろりと零れ落ちやうに流体物と化し、
既に吾の意識も歪にぐにゃりと流体化して、
時間の進行を全く意識することなく、
卒倒までの短い時間の快感をもっと堪能するのだ。

ここで、吾は最早今生では会へぬ筈の異形の吾にたまさかでも遭ふのだ。
そこで、吾は吾に溺れてはならぬ。
これは、吾が吾に対して詭計を行ふいつもの手なのだ。
今にも羽化登仙するかのやうな吾の心地よい瞬間に騙されず、
吾は、しかと吾の体たらくを直視し、
さうして吾はほろ酔ひ気分の中にありながらも、吾を断罪するべきなのだ。

それが吾が卒倒するときの唯一の礼儀であり、
吾が現在にしかをれぬことに対する最も有り体な姿勢なのだ。

さうして、吾は吾に対する言葉を全く失ふことで、
吾は吾に対して絶句することで心底から語り合ふことが可能といふ矛盾を
身をもって知るのである。

吾と吾との間に最も相応しい言葉は沈黙であり、
さうしてしじまが吾の卒倒を誘ふのだ。



進退谷まれり

何を思ったのか、彼は不意に哄笑したのである。そのひん曲がりながらも高らかな嗤ひ声には彼の置かれた状況が象徴されてゐて、と、突然彼は涙をその瞳に浮かべたのである。何が哀しかったのだらぅか。
――そんな事も解からないのか。存在がそもそも哀しいのさ。
――馬鹿らしい。そんな事は誰もが思ふ事で、殊更に言挙げする必要などないぜ。
 彼は何とも名状し難い皮肉に満ちた嗤ひ顔で尚も涙を流すのであった。
――醜いぜ。男がそんなに泣き顔を世間に晒すのは醜悪以外何ものでもないぜ。
――なに、死を前にした男の一泣きを、つまり、Swan song(スワン・ソング)を聴く事がそんなに気色悪いかね?
 彼は尚も頬に涙を流し、噎び泣くのであった。

 曇天の鈍色の雲は竜巻を巻く積乱雲の底のやうに地面近くまで垂れ込めて、彼の泣き声を掬ひ取ったのであった。
――死を前にした男の泣き声ね、ふっ。お笑ひ種だね。そんなものなど端からある筈がないぢゃないかい? 生まれちまったものは死を抱きしめるしかないのに、何を今更泣く必要があるのかね。全く話にならないね。
 その時彼の視野の外縁に突然光が飛び込んできたのであった。それは何だか巴の、若しくは陰陽五行説の太極のやうな勾玉の形をした、つまり、精虫が取り付いた卵子の如く彼の眼に光が飛び込んで来たのであった。さうして、彼の内部には何かが誕生したのである。それが何なのかは、彼が口を開くまで解からぬ事であった。
――何が見えたのかね?
――何、『お前は死の床に就け!』との天の声が聞こえたのさ。
――天の声? 馬鹿らしい。
――お前にかかると何もかもが馬鹿らしいのだな。それぢゃ生きてゐて詰まらなくないかい? 
――余計なお世話さ。
――さう。何もかもが余計なお世話なのだ。それでも此の世には絶えず何かが生まれ、そして、絶えず何かが死んで逝くのだ。諸行無常。森羅万象はこの摂理に対して全くの無力で、それを有無も言はずに造化のままに受容する外ないのだ。それが、果たして何物も我慢出来る代物かね。おれには我慢がならぬのだ。おれにはまだおれの死は受け容れられぬ。
――……。
 ここに彼の進退谷まれり。
さうして彼は茫然と渺茫とした世界を眺めながら、静かに瞳を閉ぢて、死に旅へと出立したのであった。

短歌二首

何ものも 吾を入れる物ならず それ故独り秋月を見る

常世をば 誰もが望み崩れゆく それもまた乙なものとして 夢見するのか

『進退谷まれり』

流れゆく雲を眺め、
それが既に際どい状態にあることを察知せよ。
さもなくば、お前は既に「死んでゐる」

それで構はぬといふのであれば、
それをお前は絶えず示威しなければならぬのだ。
そんな愚劣な時代がもうやって来てしまったのだ。

誰も彼処も愚劣にも吾を主張し、
個性の時代等とほざきやがる。
しかしながら、その主張する個性はうざったく、
眼の毒でしかないのだ。
個性はできる限り隠す事が
他者に対する最低限の礼儀だらう。

能ある鷹は爪を隠すとあるやうに
個性は性器と同様に衆目に晒すには羞恥を堪へ忍ぶ覚悟がゐる。

さうして、吾は進退谷まれり。
それは司馬遷の如くに、そして武田泰淳の如くに。

抽象的な無限

それは俺の手には余りあるものと言はねばならぬ。
しかし、闇が此の世に存在する限り
そいつは俺を其処へと誘ふのだ。
そいつの名は無限と言ふのだが、
それは俺にとって余りに抽象的なものなのであった。

無限級数をぢっと眺めてゐても何にも解からぬが、
然しながら、其処には俺の与り知らぬ先達たちの知の痕跡が残されてゐて、
或る無限級数は収束する。

ところが、それがさっぱり解からぬのだが、
しかし、俺の拙い論理を当て嵌めてみると、
何の事はない、俺には未だに無限が抽象的な、
否、形而上的な何ものかと
錯覚したいだけなのだ。

無限を前にすると、俺は顔が引き攣って
胸奥で快哉の声を挙げずにはゐられぬ。
成程、俺にとって無限は或る憧憬の一種であった。
俺の内なる声を聞けば
無限に呑み込まれたく浮世を這ひずり回ってゐるのだ。

或ひはさうなのかもしれぬが、
無限に憧憬を抱いてしまふ俺は、
今も尚、赤子の如く浮世に投げ出され、
さうして母親の乳房をぢっと待ってゐるだけなのかもしれぬ。

無限とは腹が減るものなのである。
だが、無限を満たすには、食物では駄目なのだ。

それには抽象的な思索の断片が必要で、
それを唯一美味さうに無限に飢ゑた俺は食らへるのだ。

何を嗤ってゐるのかね。
君にはきっとこんな事はどうでもいいのかも知れぬが、
俺にとっては生死を分けるのっぴきならぬものが無限なのだ。

もう、後退りは出来ぬのだ。
何故ってもう俺は此の世に生まれ落ちてしまったからさ。
作品名:闇へ堕ちろ 作家名:積 緋露雪