闇へ堕ちろ
かうして、《吾》は何時でも《存在》から退く事ばかりを考へてゐたのだが、
ところが《吾》は《存在》から撤退することはままならず、
退くのは《吾》以外の《もの》ばかり。
さうして此の世に《吾》のみ取り残されたといふ錯乱の中、
単独者としての《吾》の来し方行く末に不安を覚える《吾》は、
絶えず現在に取り残されたといふ怨嗟にのみに執着し、
過去と未来を呪ふのだ。
不安が去来現をぶつ切りにしながら、
《吾》の内部を侵食する。
燃え上がる《異形の吾》は、
ヰリアム・ブレイクがかくいふ消えない永劫の炎に身を包み、
《吾》に取って代はらうとバリバリと《吾》を喰らふのだ。
尤も、それは《吾》が望んだ事で、《吾》の消滅こそ、
《存在》する苦悶からの逃げ道なのだが、
それは《吾》がある限り不可能なのだ。
禁忌なのか。
《吾》が《吾》を侵食する事は。
秋山駿が「内部の人」と呼んだ《存在》の在り方は
土台、無理強ひもいいところなのさ。
へん、《吾》が《吾》を喰らふとは、
嗤ひが止まらぬぜ。
何たることか。
《吾》は《吾》を鏖殺し尽さなければ、
満足しない生き物なのだが、
それが端から許されぬ不合理に留め置かれつつある苦悶の中で、
永劫の業火に燃ゆる《異形の吾》に喰らふが儘に、
《吾》は《吾》として屹立させられる。
だが、《吾》は毅然として業火に焼かれる儘に、その場に屹立せねばならぬのだ。
寂寞
此の寂寞とした、何とも表現し難き感覚は、何なのであらうか。
――それ。
と其処に石ころの一つを投げ入れても、カランコロンと虚しい音が響くだけなのだ。
しかし、その寂寞とした其処は、吾は決して見放すことは不可能なものなのだ。
何故って、其処は此の胸に外ならないから。
それでも吾は何度でも其処に石ころの一つでも投げ入れて、
カランコロンという虚しい響きをぢっと聴かずにはをれぬのである。
さうして、吾は、やっと此の世に屹立する事が許され、
また、吾はその虚しい響きで以て吾の存在を確認するのだ。
その響きは、しかし、虚しいものでなければならない。
でなければ、吾は直ぐに吾に飽きてしまって其処で大欠伸をするのが関の山なのだ。
それは、シシュポスに比べれば、何の事はない、簡単に自己確認が出来ちまふ代物なのだ。
つまり、吾は絶えず虚しい響きに聞き耳を欹てる事で、
吾が虚しいものとして納得出来るのだ。
さう、吾は何としても虚しいものでなければならぬ。
吾が虚しくなければ、途端に吾は吾自身に対して猜疑の眼を向け、
無理矢理にでも吾は吾を虚しいものとして把捉したがるのだ。
その傍では、お道化たものが、つまり、それも憎たらしい吾に違ひないのであったが、
吾を嘲笑ふ吾もまた、その虚しい響きに安寧を感じてゐるのだ。
ならば、吾、立たんとす、シシュポスの如くに。
さうして胸奥に石ころのカランコロンといふ虚しい響きが永劫に残るのだ。
短歌二首俳句一句
何を見る闇間に浮かぶ月明かり其は絶望の写し鏡か
何悩むそんな吾の惨状に連れない月はただ嘲笑ふのみ
月を見て哀しみに一人煩悶する夜更け
何気なく
何気なく見ただけであるにせよ、
一度でも目にしたものは必ず見た事を覚えてゐなければならぬ。
何故って、今生の縁として、多生の縁として
眼にしてしまったものは必ず死後までも覚えておかなければならぬ。
それは此の世を生きるものの最低の礼儀だ。
さうしてやつと吾は吾として認識出来るのだ。
これが吾と他との相容れない線引きなのだ。
この線引きこそが他を思ふといふ事のアルケー、つまり始まり。
そして、アルケーなしに吾の縁の出立はないのだ。
そこでやがて来る死に備へて何かをすることは要らぬお世話なのだ。
死を迎へるにせよ、
それは日常を何の衒ひもなく生き切るといふ事以外何物でもない。
死を前にして生者たる吾は何も特別なことをする必要がない。
死を前にして、吾はただ、ものを喰らひ、寝、そして日常を生活するだけでいいのだ。
さうして吾は死を受容するのだ。
さて、お前は何時も吾を嘲笑ってゐるが
さうしてゐられるのも今の内だけだ。
他を嗤へる存在は賤しく醜悪な存在でしかない。
嗤ふのは吾に対してのみでしかない。
自嘲するといふ行為こそ、
自慰行為に似た吾の快哉なのだ。
そんなとき、吾は「わっはっはっはっ」と哄笑し、
己が存在を堪能すればよいのだ。
なあ、何気なく見てしまったものこそ、
脳裡から離れぬものだらう。
流れる雲に
《吾》の頭上を流れゆく雲は
絶えず変容して已まぬのであるが、
その中で《吾》は、
流れる雲の如くに絶えず変容してゐると断言できるのか?
仮に《吾》が変容する事を一度已めてしまったならば、
果たして《吾》は《吾》足り得るのか?
あの空に浮かび、風に流されゆく雲は、
気圧と気流と水蒸気との関係から、絶えずその姿を変へるのであったが、
《吾》にとって気圧や気流や水蒸気に当たるものは何かと問へば、
それは《他》と《森羅万象》と《世界》、つまり、《客体》と答へればいい。
雲が姿を変へるのは雲の赴くままに全的に雲に任せればいいのだ。
雲は雲にも宿ってゐるに違ひない《吾》が為りたいやうに変容してゐるのではなく、
雲を取り巻く環境、若しくは《世界》に応じて
無理矢理とその姿を変へるのだ。
それでも雲を見る度に
雲が己自体で姿を変容してゐると見えてしまふ此の《吾》のちっぽけな哀しみは
《吾》が《世界》を認識出来ぬ焦りからか、
《吾》が《吾》で完結する夢想を今も尚抱へてゐるに過ぎぬのか?
このちっぽけな《吾》は
絶えず《吾》でなければならぬのだ。
さうして初めて《吾》は《世界》を認識し得るのだ。
さうして初めて《吾》は《吾》と呼ぶがよい。
そして、《吾》もまた《世界》によって変容を強要されるのだ。
ざまあみやがれ!
さうして《吾》は自嘲出来、
たんと此の世に佇立する。
そんな《吾》の頭上を雲が変容しながら流れゆくとき、
《世界》は、《森羅万象》は、《吾》を自嘲する嗤ひ声の大合唱に溺れ行くのだ。
――ぐふ。嗚呼、何故に《吾》は《世界》に《存在》し得るのか?
口惜しきは
口惜しきはお前の生に対するその姿勢なのだ。
お前は生に対してかくの如く断言しなければならぬ。
「死んだやうに生き永へえるには、《吾》は《吾》の無間地獄から抜け出すべく、《吾》は須からく覚悟を持つべき事。」
それは陽炎の如く曖昧模糊とした《吾》の造形を意識は《吾》には齎さないが、それでも《吾》は抽象の中にほんの僅かな具象の欠片を《吾》に見出しては、安寧を抱くのだ。
それ、再び《吾》から陽炎が飛翔する。薄ぼんやりと前方を眺めてゐると《吾》の体軀から陽炎が湧き立つ翳が見えるのだ。
それで《吾》はかう断言しなければならぬ。
「《吾》この珍妙なる存在よ。最後までその正体を現はす事なく、《吾》が太陽のやうに非常に高温なコロナの如き陽炎を放つことで、《吾》を敢へて現実に順応させる陽炎よ。
《吾》の内発する気は祝祭の前夜祭。
気が気の精でならなければ、人間は一時も生きられぬに違ひない。